家庭教師ファースト教育コラム社会・歴史の雑学

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そうだったのか!地名の由来9選~地名から学ぶ日本の歴史~

  • 社会・歴史の雑学
  • 2023.12.06
  • 現役医学部生ライター O

私たちが住んでいるそれぞれの地域に「地名」がつけられています。地図を開いてみるとわかるように、全国の至る所に「地名」は存在していて、その数は数えきれないほどです。日常生活の中で、手紙を出す際に住所を書いたりニュース・天気予報などで各地の「地名」を耳にしたりと「地名」に触れる機会は多いかと思われます。

しかし、個々の「地名」の由来について深く考えたことのある人はあまりいないのではないでしょうか。今回はそんな「地名」の由来、とりわけ歴史と関わるものを中心にいくつか紹介していこうと思います。また、地名の由来と関連する日本史の重要事項についてもいくらか盛り込んでおります。皆さんの歴史の勉強のキッカケになることができれば幸いです。

もしも勉強方法に迷った際には、私たち家庭教師に是非ご相談ください!

はじめに~地名とは~

地名は、一定の地域の呼称としてかなり古くから用いられてきました。町名や通りの名前など狭い範囲から、県名や地方名、そして国名といった広い範囲まで名前が付けられています。その由来にはさまざまなものがあり、現在も盛んに研究されています。

由来の例としては、その場所に特徴的な地形から名前を付けたもの(大きな山、で「大山」といったイメージ)、人の名前にちなんだもの、有名な歴史的できごとからとったもの、などがあります。いつごろから場所に名前を付けるようになったかは定かではありませんが、特に地形から名前を付けることはかなりの昔から行われていたのではないかと推測します。

それでは以下の記事で、歴史とかかわりのある地名の由来たちを紹介していきます。

岐阜」の由来~ノブナガの野望~

ノブナガの野望

中部地方にある「岐阜」県。世界遺産の白川郷をはじめ、飛騨・高山や長良川の鵜飼いなどで有名です。しかし、県名になっているがゆえにそれなりの親しみはありますが(ありますよね!)、「ギフ」というこの漢字と読みはなかなか難しいのではないでしょうか。都道府県名を漢字で書けるよう頑張っている小学生にとって、いや~な県名のひとつかもしれません。どうしてこのような名前になったのでしょうか?

岐阜と織田信長

時はさかのぼって戦国時代。美濃の国と呼ばれていた現在の岐阜県に、天下布武を掲げてある戦国大名がやってきました。そう、織田信長です(尾張のうつけと呼ばないでください)。

信長は、もともとこの地を治めていた大名で、油売りから身を興して大名となった美濃のマムシこと斎藤道三と、その息子龍興を破り、1567年にそれまで稲葉山と呼ばれていたこの地を「岐阜」と改名しました。岐阜に入った信長は岐阜城と城下町を整備し、岐阜の発展に努めました。とりわけ商業の発展に力を入れており、打ち出された政策が「楽市令」であります(「楽市・楽座」としても有名ですが最近では「楽市」も「楽座」も同じ意味を指しているのでは、ということで単に「楽市令」と呼ぶようになってきているとか・・・)。

それまで商売をする際に必要だった税を撤廃し、自由に商売ができるようになりました。これにより岐阜の町は大いに発展し、日本にキリスト教の布教で訪れていたイエズス会宣教師ルイス・フロイスによってその発展ぶりが遠くヨーロッパにまで伝えられています。

岐阜の意味

さて現在も岐阜の町のシンボルになっているのが金華山という小高い山の頂上に位置する岐阜城です。信長が築いた城として安土城とともに有名です。現在は天守が復元されていて観光ができますが、天守まで行くためにロープウェイがあります。天守からは岐阜の町が一望できるようになっていて、非常にいい眺めです(ぜひ行ってみてください!)。ここから信長も景色を見ていたことでしょう。その目線の先には天下への道筋が見えていたことでしょう。

「岐」という字は「岐路」や「分岐」という熟語があるように、「分かれ道」という意味があります。また、中国の故事で「岐山」という地を周王朝が起点にして、殷王朝との戦いに勝利したという故事もあります。「阜」の字の訓読みは「おか」。大きい丘という意味があります。信長はこの地を獲得したことを天下への足掛かりにするため、行く先を見分ける大きな丘、という意味の「岐阜」という地名を与えたというわけです。先見の明しかなかった信長らしい発想といえるでしょう。

焼津」の由来~日本神話の英雄の奮闘が残る~

静岡県に「焼津」という地名があります。東海道本線の駅名にもなっていますし、何より焼津はカツオやマグロをはじめとした漁業で有名です(マグロ丼が絶品ですよ!)。そして、この地名はどうやら古くからの由来があるようです。

ヤマトタケル

話は古事記・日本書紀の世界にワープします。これらの書物はまとめて「記紀」とも呼ばれ、奈良時代に編纂されたものです(書いた人も違うし、「き」の字も違うのできをつけましょうね)。天皇を中心とする政治がひとまず安定し、それまでたどってきた日本の歴史を記録に残そうとしたわけです(もちろん旧石器や縄文時代とかの存在はこの時代の人は知らないので、神様が日本を創ったところからですよ!)。そういうわけで記紀の中には物語のような記述が多くみられます。いわゆる日本神話はこれらの書物に収められています。

その中で今回取り上げるのは「ヤマトタケル」という人物です。彼は父である景行天皇(第12代天皇。実在したっぽいです)の命で全国各地を平定して回ったとされています(天皇の子どもなのに…)。ヤマトタケルは、いろいろな作戦をめぐらし、各地に存在していたヤマト朝廷に従わない集団を制圧していった、いわば古代史のヒーローとされています(記紀によると、あまりにも強すぎたため父が彼を遠ざけておきたかったんだとか。納得できるけど可哀想ですね)。

焼津の由来

そんなヤマトタケルが東国に遠征したとき。地元の国造(クニノミヤツコ、要はそこの国のボス)にだまされて海沿いの草むらで火に囲まれて殺されそうになります。そこで彼は持っていた天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)で草を薙ぎ払い、火打石で火を起こして向かってくる火を逆に相手のほうに向けて、危機を脱出したそうです。草を薙いだことから天叢雲剣は「草薙剣」(くさなぎのつるぎ、三種の神器の1つですね!)と呼ばれるようになり、さらに「草薙」の地名(これも静岡県にありますね!)が生まれました。そして彼が危機に遭った海沿いの草むらは一面火で焼けてしまったことからこの地は「焼津」となったと言い伝えられています(「津」には「港」の意味があります)。

このほかにも彼の冒険のエピソードから生まれた地名はいくつかあります。千葉県の「木更津」「袖ヶ浦」は彼の読んだ歌に由来しているようですし、彼が疲れ果てて「足が三重に曲がってしまったようだ」と言ったことが「三重」の由来とされています。

所詮は神話と侮るなかれ

ここまで述べてきましたが、所詮は神話の話と思われる方もいるかもしれません。しかし私はそうは思いません。この一連の神話はヤマト朝廷が各地に勢力を拡大していったことを暗示しているのではないでしょうか。ヤマトタケルは九州から関東まで全国に遠征します。これはこの時代に勢力を広げたヤマト朝廷の範囲と似ています(ワカタケル大王の鉄剣の問題は頻出ですよね)。ヤマトタケルも、もしかしたら個人ではなく各地に遠征していったヤマト朝廷の軍隊の象徴とも考えられます。いろいろな見方はあると思いますが、何より神話の世界から生まれた地名が現在に深く根ざしているってなんだかロマンがありませんか?

東京のアノ地名、こんな由来があったんです

東京の地名の由来

日本の首都、東京。1000万を超える人口を有し、日本最大の都市となっています。読者の皆さんの中にも東京で暮らしている方・東京に行ったことのある方は多いと思います。1867年に大政奉還で江戸幕府が倒れたのち、1868年に政治の中心が東京になりました(東京遷都と言われますが、正式に東京を首都と定める法令は現在もないそうです)。それまでの「江戸」が改められ、「東の京(みやこ)」ということで「東京」となりました。その東京ですが、歴史と関係ある地名が多くあります。そのいくつかを見ていきましょう。

お台場」の由来~どんな場所?

フジテレビやデックス東京ビーチをはじめ数多くの商業施設の立ち並ぶ、観光スポットとしても名高い「お台場」。台の場所という名前ですが、どういう場所なのでしょうか。

話は幕末に。1853(嘉永6)年といえば、みなさんご存じの黒船来航の年ですね。江戸にほど近い海岸に見たこともないような巨大な黒いカタマリがやってきたので、当時の人々はさぞ驚いたことでしょう。

「太平の 眠りを覚ます 上喜撰 たった四杯で 夜も眠れず」(当時「じょうきせん」というお茶があったことと、4隻の蒸気船が来航したことをかけています)という歌も有名です(幕府の役人さんたちがアタフタしていた一方で市民は歌を詠んだりペリーの似顔絵を描いたりして意外と楽しんでいたようです)。

アメリカ大統領フィルモアの国書を持って日本に開国を求めにはるばるやって来たペリー。日本側は対応に追われます。その対応の一環として沿岸防備を固めましょう、という意見がありました。そこで、江戸を防衛するため、江戸湾に向けて砲台が設置されました。その砲「」を置いたを「台場」と呼んでいたのです。台場はいくつか設置され、そのひとつの第三台場が今日のお台場です。お台場観光の際にはぜひ思い出してみてください。

銀座」の由来~東京だけじゃありません~

東京を代表する繁華街で高級商業地の代名詞として知られる東京都中央区の「銀座」。ですが、ほかにも「戸越銀座」などのような「〇〇銀座」という名前がもしかしたら皆さんの近くにもあるかもしれません。東京の銀座にあやかって「○○銀座商店街」などと名付けたのでしょうか?それも間違いではないのですが、そもそも「銀座」にはどんな由来があるのでしょう?もう少し詳しく調べてみると「金座」や「銅座」なんて地名もあるようです(金座商店街は広島にあった気がします)。

ナゾが深まるので、答え合わせをしますと、銀座というのは「銀貨をつくる場所」だったのです。江戸時代は三貨といって、金貨銀貨銅貨が流通していました。それらを鋳造し、流通させるところをそれぞれ「金座」「銀座」「銅座」と呼んでいて、各地にあったのです。その中でも江戸にあった銀座が大きかったことから、現在まで地名として定着したようです。ちなみに江戸にあった金座の跡には日本銀行が建っています。ある意味現在も「金座」の役割を果たしているといえますね。

ついでに、貨幣について出てきたのでひとこと。貨幣については日本史の特にテーマ史でめちゃくちゃ出てきます。江戸時代だけでも三貨の流通についてとか、銀が混ざった小判について、など頻出ポイントは多いです。さらに時代ごとにそれぞれ貨幣が出てきて出題しやすいテーマです。新札も発行されるのでそこに絡めた問題もありそうですね。ぜひおさえておきましょう。

紀尾井坂」の由来~新しいアイドルグループ?~

最近有名になっている某アイドルグループ名を耳にしたことは多いと思いますが、そういえば東京には○○坂という地名が結構あるような気がします。その中で面白い由来をもつ坂を紹介します

その坂の名前は「紀尾井坂」。千代田区にあります。おそらく坂の名前よりも有名なのは、この場所で起こった事件でしょう。「紀尾井坂の変」ですね。「変」というのはクーデターのことを指す場合が多いです。この事件で殺されてしまったのは当時政界でナンバーワンの権力を誇っていた内務卿大久保利通。明治維新の立役者の一人でありますが、強引な政策等で少なからず反感を買っていたのも事実だったようです。2021年大河ドラマ「青天を衝け」でも政府の軍費を急拡大させようとして渋沢栄一とケンカになるシーンが描かれておりました。そんな大久保さんが不平士族に暗殺されてしまったのがここ、紀尾井坂なのです。

さて、長くなってしまいましたが紀尾井坂の由来。それは「紀伊」「尾張」「井伊(彦根)」です。それぞれの藩の屋敷が周辺にあったことからこの名前がついたようです。紀伊と尾張といえば御三家の二藩。そして井伊氏の彦根藩と言えば譜代大名の筆頭です。紀尾井坂は千代田区にあると先ほど述べましたが江戸城(現在の皇居、千代田区にある)に近いところほど有力な藩の屋敷が置かれていたこともわかりますね。

八重洲」の由来~ヤエスさんとは?~

八重洲の由来

東京シリーズ最後は、ちょっと変わった由来の地名を紹介しましょう。

東京駅の西側「丸の内」に対して東側一帯を「八重洲(やえす)」と呼びます。「八重洲地下街」や「八重洲ブックセンター」などにもその地名が使われています。さて、どんな由来でこのような名前になったのでしょうか。実はそこにはなんと外国人が関係しているのです。

時は1600年。1600年と言えば天下分け目の関ケ原の戦いが起こった年ですが、実はその少し前に、日本のその後の外交史に関わる重要な出来事があったのです。

ある日、豊後沖(大分県)にある船が漂着します。どうやら南蛮からの船のようです。そこに乗っていた人物がイギリス人航海士のウィリアム・アダムズオランダ人の水先案内人、ヤン・ヨーステンでした。彼らは漂着直後は海賊と決めつけられて罪人のように扱われていましたが、世界情勢を事細かに知っていたため時の権力者、徳川家康に気に入られます。あれ、家康さんって外国人とかキリスト教とかあんまり好きじゃなかったような気がしますよね。そう思った方、その通りです。家康は当時日本で布教を進め、その基盤を確立しつつあったスペインポルトガルカトリック勢力を心よく思っていませんでした。信長は新しいもの好きで外国に寛容でしたが、秀吉や家康はそうではなかったため、しっかり取り締まっています。だったらなおさら嫌がるはず、と思うかもしれませんが、やってきた二人はイギリス人オランダ人なのです。

世界に目を向けるとその頃は、イギリスやオランダ(この当時はイングランドと神聖ローマ帝国かな、たぶん)は、スペイン・ポルトガルと仲が悪かったのです。そして、プロテスタント(キリスト教の宗派のひとつで、カトリックと相性がよくない)だった二人は、家康がちょうど気に食わないと思っていたスペインやポルトガル、そしてカトリックについて、良く言うはずがなく、それによって気に入られたと言われています。そんなこんなで家康のもとで働くことになった二人。ウィリアム・アダムズは名前を日本風に「三浦按針(あんじん)」、ヤン・ヨーステンは中国風に「耶揚子(やようす)」と名前も変えました。

長くなりましたがカンのいい方はお気づきでしょう。この「耶揚子」もとい「ヤン・ヨーステン」が八重洲の由来なのです。当時彼の屋敷があったのが現在の八重洲周辺だったようです。八重洲地下街の一角には彼の記念像が建っているので、東京駅に行った際はぜひ見つけてみてください。

ちなみにもう一人の三浦按針ですが、家康の外交顧問として活躍し、横須賀に土地をもらい生涯を過ごしました。そこにある彼のお墓が「安針塚」です。京急線の駅名として残っています。

大阪」の由来~そもそもいつから大阪なの?~

大阪の地名の由来

さて、前章では東京を取り上げたので今度は西日本代表、大阪にフォーカスを当てていきたいと思います。個人的には大阪には難読地名が多いように思います。

明治維新によって「江戸」が「東京」に改称されたのは有名な話ですが、「大坂」という地名はいつから使われ始めたのでしょうか。大坂城といえば天下人、豊臣秀吉の城というイメージから、なんとなく秀吉が関わっているのではないかと考える人も多いでしょう。半分正解です。秀吉は「大坂」を発展させ、地名を広く定着させましたが、実は秀吉の登場よりも前から「大坂」の地名はあったようです。(漢字が違いませんか?と思った人、もうちょっと待ってください。)

石山本願寺

話は秀吉が天下人になる前、織田信長の家臣として腕を振るっていた時期にひとまず戻ります。そのころ破竹の勢いで勢力を伸ばしていた信長に、ある強敵が立ちはだかります。当時の大坂一帯を支配していた浄土真宗の石山本願寺です。あの信長も一度は敗退を余儀なくされたくらいの強敵です。一体どんな集団なのでしょうか。

時代をもう少しさかのぼってみましょう。信長らが活躍する100年ほど前、本願寺(京都の浄土真宗のお寺です)に蓮如という僧がいました。蓮如は落ち目になった本願寺を再興するため、全国の人々に向けて浄土真宗の教えをわかりやすく書いた「御文」による布教を始めます。すると門徒は増え、各地に寺内町(浄土真宗の仏教寺院を中心とした街)ができました。福井県の吉崎御坊とか京都の山科本願寺とかが有名です。そして蓮如は本願寺派の一大拠点を建てるためにある土地を選びました。そこは「小坂」と呼ばれておりました。小高い坂のような地形で、天然の要害のようになっていたこの地に、石山本願寺を建造します(寺と名前がついていますが、防御施設も備えており、むしろ武装した城です)。ついでに地名を縁起良く「小」から「大」に変えて「大坂」としました。「大坂」が文献に初めて出てくるのが蓮如の書いた書物であることから、彼が名付けたとするのが有力です。

その後も本願寺の一派は拡大し、権力者たちに属さない姿勢を貫いていきますが、やはり流れに乗っている信長は止められず、1580年に崩壊します(それでも信長を10年ほどにわたって苦しめました。すごいですね)。石山本願寺も焼失してしまいます。

豊臣秀吉

さて、石山本願寺の跡地に目を付けた人物がいました。信長が攻めあぐねた厄介な地形のこの場所は、城を建てるのにピッタリだと考えたのです。その人こそ豊臣秀吉です。彼は信長の安土城を超える城を築こうと意気込み、この地に難攻不落の大坂城を築き上げたのです。その後、大坂の陣で徳川幕府によって秀吉の大坂城は失われましたが、江戸幕府の力の及びにくい西国を監視する拠点として、大坂城は再建されました。大坂は商業都市として引き続き大きく発展し、現代に至ります。

大坂と大阪

最後に。ここまで大坂の由来を述べてきましたが、「おおさか」の表記が全て「大坂」であったことが気になったのではと思います。実は、かつては「大坂」の表記が使われていたのです。しかし、江戸時代頃に「坂」の字は「土に返る」と書くので縁起が悪い、とされ代わりに「」の字が定着していったとされています。大阪については難読地名など他にも面白い地名の由来がたくさんあるので、時間があれば調べてみてください。

上越」の由来~どうして南側が「上」なの?~

上越の地名の由来

越後の国、新潟県の南側(西側)は「上越」と呼ばれます。上杉謙信や直江兼続が活躍した地として有名でしょう。ただ、不思議なことに新潟県の地域区分では「上越」より北側の地域を「中越」、さらに北の地域を「下越」と呼ぶのです。逆のような気がしますが、どうしてこんな命名になったのでしょうか。

令制国

話は大きくさかのぼります。現在の都道府県の大元になったのは645年に始まる大化の改新で制定された「令制国」(律令に基づいた国)に由来するようです。歴史を学ぶとよく出てくる旧国名はこのころから使われ始めたってことですね。思ったより歴史があると感じた方、多いと思います。

さて、地方はこの令制国に基づいた区画に基づいて整備されていきます。各地の政治は中央から送られてきた「国司」と、地元の有力者「郡司」が担っていました。また、地方政治の中心地は「国府」と呼ばれていました。現在残っている「国府」や「府中」といった地名は、もともと国府が置かれていたことに由来しています。ただ、古代には地方自治のような概念はなく、あくまでも政治は都が中心となっていました。

都から出発する順番

話が著しく脱線してしまいましたので、ここで戻します。当時は都である近畿地方が日本の中心であったため、地方へ向かうとなれば必然的に都が基準となります。都を出発して着く順に、「」(「→」)→「」や「」(→「」)→「」と地域名がついていったのです。

例えば都から西に行くとします。近畿地方を抜けて中国地方へ。岡山県→広島県の順に通りますが、岡山県東部が「備前」、西部が「備中」、広島県東部が「備後」と名前がついていますね。それと同じ例が北陸でもみられます。都を出て北陸へ向かうとまず福井県に。これが「越前」の国です。次に富山県。つまり「越中」です。そして新潟県「越後」に至るというわけです。また、縦に長い新潟県内でも同じような区分けがされて、南側を「上越」と呼ぶようになったのですね。

千葉県民の疑問

さて、ここでとてもカンのいい人か千葉県民の皆さんは新たな疑問が生じると思います。千葉県は北部が「下総」(しもうさ)で南部が「上総」(かずさ)ですが、説明と食い違っている、と気づくのではないでしょうか。実はこれにもちゃんとした理由があって、当時千葉県に向かう際は陸路ではなく海路が一般的だったことがその理由です。難波津(大阪)などから房州(千葉)に出発した船がまず着くのが南部だからですね。

上越新幹線は実は・・・

ちなみに、ちょっと雑学的なことをひとつ。東京から新潟に伸びる「上越新幹線」の「上越」は、「上越地方」からとったわけではありません。「上野」(こうずけ。群馬県のこと)と「越後」を通る新幹線、というのが由来です。そういえば、上越地方を全く通ってませんからね。

教科書や資料集に何気なく出てくる旧国名にも、いろいろ歴史があって面白いものです。

北海道の地名の由来

北海道の地名の由来

北の大地、北海道。日本一の面積を誇り、農業や畜産が全国トップで盛んです。産地直送のおいしい食材を使っているからなのか、北海道で食べる食事は一段とおいしいような気がします。

あれも、これも、アイヌ語由来の地名

さて、そんな北海道ですが県庁所在地は「札幌」(サッポロ)。運河で有名な町は「小樽」(オタル)、世界遺産「知床」(シレトコ)、最北端の「稚内」(ワッカナイ)、など少し不思議な響きの地名が多くみられます。ご存じの方も多いとは思いますが、これらは全て北海道の先住民族であるアイヌの人々の言葉に由来しています。例えば「サッポロ」はアイヌ語の「サッポロペッ」(乾いた大きい川)から。石狩川のことでしょうかね。「シレトコ」は「シリエトク」(地層の出っ張った先端)。「ワッカナイ」は「ヤムワッカナイ」(冷たい水の沢)からきています。

他にもおもしろいものだと「富良野」の由来がイオウ臭いという意味の「フラヌイ」、だったり(ラベンダー畑の美しい景色はどこへやら…)、「釧路」が一説には「ノド」を表す「クッチャロ」からきていたりします(クッチャロ湖という湖もあります)。さらに北海道の中部に「砂川」という地名がありますがアイヌ語にすると「オタウシナイ」(砂の多い川)。それを音写した「歌志内」(ウタシナイ)という地名もあります。こういう例もいくつかみられます。

地名とその由来を見ているとわかることがアイヌ語の自然を表す語彙の多さです。アイヌの人々がいかに自然と共に生活していたかがうかがえます。

日本とアイヌ

しかし、日本の歴史を振り返ってみると、アイヌの人々の生活範囲を狭くしてきた歴史があります。近年ではアイヌの人々への理解が進んできていますが、失われてしまったものは多く、特にアイヌ語をネイティブとする人はほとんどいなくなってしまったようです。日本の唯一の先住民族のアイヌの人々。直接かかわる機会は少ないにしろ、その文化や歴史的背景を知っておくことは非常に意義があります。北海道の白老で最近アイヌ文化を発信するための施設「ウポポイ」がリニューアルオープンしました。観光化されているとはいえ、学びの場としてとても良い経験ができるので、ぜひ足を運んでみてください。

おわりに~歴史を学ぶことについて~

いかがでしたでしょうか。今回は「地名の由来」をテーマに扱ってきましたが、私がほんとうに伝えたいのは地名の由来だけでなく、その背景にある歴史的事実です。

確かに歴史の勉強は暗記量も多く、苦手とする人も多いでしょう。時代の流れをつかめないという生徒さんも非常に多いです。確かに時代の流れ(タテの流れ、と呼んでいます)に沿って学習していくことは大事です。教科書の順番も時代順ですし。

しかし、それだけではなく今回扱ったようなある事実から関連させて知識の引き出しを増やしていくことで(ヨコの流れ、と呼んでいます)、歴史が面白いものと感じるようになると思います。事柄を1対1で覚えるのではなく、身近なことなど様々なことに関連付けて広げていく。そうするといつしか歴史は暗記科目ではなくなっていくのです。

もしも勉強方法に迷った際には、是非私たち家庭教師にもご相談ください!

この記事を書いたのは

現役医学部生ライター O

家庭教師ファーストの登録家庭教師。秋田大学 医学部医学科在籍。家庭教師だけでなく塾講師の経験もアリ。

著作・制作

家庭教師ファースト/株式会社エムズグラント

『質の高いサービスを、良心的な価格で』をモットーに、全国で20年以上家庭教師を紹介しています。実際に担当する教師による体験指導受付中。教育に関する相談もお気軽に。

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