家庭教師ファースト教育コラム社会・歴史の雑学

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【世界史編】社会が好きになる「雑学」6選を現役阪大生が解説

  • 社会・歴史の雑学
  • 2023.08.01
  • 現役阪大生ライターT

「世界史」と聞くと皆さんはどのようなイメージを持つでしょうか。ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世、ラタナコーシン朝…などといったカタカナの用語が多くて、覚えることに苦労しそうだというようなマイナスイメージを持つ方も多いと思います。しかし、本来世界史とは単語の暗記に終始するべき科目ではなく、世界史という膨大なボリュームの人間ドラマを読み解くことで、現代の私たちのものの見方を多角的に広げることを可能にする科目であるべきなのです。

今回は、世界史の中の人間臭くて面白い歴史エピソードや世界史の雑学を紹介することで、皆さんに世界史が面白い学問であることをお伝えしていきたいと思います。早速見てきましょう!

ヘンリ8世がカトリック教会から脱退したわがままな理由

ヘンリ8世がカトリック教会から脱退したわがままな理由

ヘンリ8世ってどんな人

ヘンリ8世は、イギリスのテューダー朝第2代国王(在位1509~47)です。絶対王政を強化しつつも議会と良好な関係を維持したことで、当時弱小国であったイギリスが後世に大国となるための基礎を築いた人物です。また当初は宗教改革を批判し、教皇レオ10世から「信仰の擁護者」の称号を贈られるほどの敬虔なカトリック教徒でした。しかし、彼は生涯で6人もの王妃を迎えるだけでなく多くの愛人を抱えており、かなり好色な一面も持っていました。

わがままな脱退理由について

ヘンリ8世には、もともとスペイン国王フェルナンド5世の娘である正妻キャサリンがいましたが、彼女との子供は女の子一人を除いて皆早くに亡くなってしまい、王位継承の問題が生じました。1520年ごろ、当時30歳前後であったヘンリ8世は、あろうことか宮廷に仕えていたアン=ブーリンと恋に落ちてしまいます。正妻のキャサリンと離婚し彼女のことを皇后として迎え入れようと考え始めたのです。

ヘンリ8世はローマ教皇にキャサリンとの離婚を認めてもらおうとしましたが、カトリックの教えでは離婚は固く禁じられていたため拒否されてしまいました。ヘンリ8世はそれでも諦めようとせず、アンとの結婚を成就させるためになんと「ローマカトリック教会から脱退する道」を選んだのです。一概にわがままとは言い切れないかもしれませんが、女性関係を政治よりも優先するというヘンリ8世の好色ぶりが感じられるエピソードではないでしょうか。

脱退してどうなった?

ヘンリ8世は1534年に首長法を成立させ、国王が教会の最高統治者である首長になることを決め、イギリス独自の教会制度を定めました。これを「イギリス国教会」といいます。この時に教会の財産を没収しており、当時国王に匹敵するほどの強い権力を持っていた教会組織を弱体化して絶対王政の強化も図るなど、ヘンリ8世の周到さが伺えます。

またイギリス国教会はヘンリ8世の息子のエドワード6世による一般祈祷書、エリザベス1世による統一法によって確立しました。

中国の殷王朝の王は物事の判断を占いで決めていた!?

中国の殷王朝の王は物事の判断を占いで決めていた!?

殷王朝ってなに?

殷王朝は、前16世紀頃に殷の湯王によって建てられた王朝で、現在存在が確認されている中国の王朝の中で最も古いものとして位置付けられています。特徴としては、高いレベルの青銅器作成技術を持ち、甲骨文字を使用し、祭政一致の神権政治を行っていたことが挙げられます。

占いで決めるとは

殷王朝の王は農事から国事に至るまで、すべて神意を占って決定を下していました。その占いの方法とは、動物の骨や亀の甲羅を熱して、それに水をかけて冷やすことで亀裂を生じさせ、その亀裂から神意を読み取り吉凶を判断するというものでした。しかし殷王は神意を読み取るとはいっても、時々自分の思い通りに物事を決めたいと考えることもありました。

例えば、どうしても隣国に攻め入りたいと殷王が考えたとしましょう。しかし、殷王は攻め入るか否かを占いによって決めなくてはならないので、凶と出てしまっては攻め入ることができません。そこで凶が出たとしても、神様に捧げる生贄が足りていないから凶が出たということにしてしまい、その場で奴隷の首をはねて生贄としてしまいます。再び攻め入るべきか占いを行い、吉とでるまでずっと奴隷の首をはね続けて占いを繰り返していたというのです…。

結局のところは神意を占うといっても、神様という存在を利用して自らの判断を正当化していただけだったのかもしれませんね。

諸子百家にまつわる意外な事実

諸子百家にまつわる意外な事実

法家の商鞅の悲劇

そもそも法家は、「孔子の説く徳治主義は現実に沿うものではない」と批判し、信賞必罰の法治主義を主張していました。商鞅以外の法家で有名な人物としては、焚書坑儒を唱え始皇帝に仕えた「李斯」。その李斯の讒言によって殺された、吃音ながらも素晴らしい著作を記し法家の思想を大成させた「韓非」などがいました。このあたりは漫画キングダムにも出てくるので知っている方もいるかもしれませんね。
ここでは、法治主義の厳しさがよくわかるエピソードを伝えようと思います。

商鞅は前359年(始皇帝の即位は前221年です)に秦の考公に登用され、富国強兵策を開始した人物です。彼は信賞必罰主義に基づいて法を徹底し改革を成功に導きましたが、孝公が亡くなって後に謀反を起こそうとした罪に問われることになってしまいます。一時は逃亡したものの、通行手形を持っていなかったために自分が作った法律である「通行手形を所有していない者の宿への宿泊を禁ずる」法に引っかかってしまい、宿に泊まることができませんでした。

そのため、自業自得ながらその法の徹底ぶりを嘆いたと言われています。このエピソードから分かるように、法治主義によって国はしっかりと管理されていたようです。しかし秦の後の前漢において武帝は、わずか15年で滅びてしまった始皇帝の「秦の採用していた法家」を採用しようとはせずに、儒家の教えを官学化したため、次第に法家の教えは忘れられていってしまったのです。

墨家の実態

墨家とは、墨子という罪人もしくは奴隷出身と言われている決して身分の高くない人物によって創始されました。彼が墨子と呼ばれた理由ははっきりとしていませんが、顔に入れ墨があったためにそのような名前で呼ばれたと言われています。また、墨家は法家と同様に儒家への批判から生まれています。

その批判とは孔子の説く仁を差別的な愛であるとするもので、万人に対する無差別な兼愛を主張しました。ここで兼愛を主張する彼の考え方は少しわかりにくいため墨子自身に語ってもらいましょう。

もし天下じゅうの人々が互いに兼愛しあい、自分以外の人間を愛する態度がまるで自分自身を愛する態度と同じようにすると仮定したら、どうであろうか。それでもなお、不幸者はじめ目上の人に愛情を欠くものが存在するであろうか。…また、同じ仮定に立つとしたら、それでもなお、目下の人に愛情を欠く不慈なものが存在するであろうか。…だから、人々が互いに兼愛しあうならば、世の中に不孝や不慈な者など存在しない。(渡辺卓訳『墨子』より引用)

以上の言葉から、無差別な兼愛とはどのようなものかよくわかると思います。またこぼれ話になりますが、彼は非攻の立場から教団を率いて小国の防衛戦争を援助するということを行っていました。しかし、弱小国を助けるためには物品援助のみならず武力による支援も必要とされたため、次第に教団の実態は傭兵集団と化してしまったと言われています。何とも皮肉ですね。

陰陽家の鄒衍が王朝交代にもたらした影響

古代から中国人の思想の根底をなしていたものに陰陽説(陰と陽の二気の交替)と五行説(木、火、土、金、水の五大要素の循環)があり、これによって自然や社会のありとあらゆる現象を説明していました。これらを合わせて陰陽五行説と呼びます。鄒衍(すうえん)はそのうちの五行説を王朝交代の理論に適用しました。ではどのように適用したのでしょうか。

五行の循環の一説に相生説というものがあり、これは子が親の後を継ぐ、つまり木は火を生み、火は土を生み...と循環していくという説です。王朝ごとに五行のうちの一つを自らの徳とすると、次の王朝は相生説の次の要素を担う王朝に交代していくという考え方です。
例としてある王朝の徳は木だとしましょう、そうすると次の王朝は火の徳を持つ王朝であるということになるわけです。

しかし、歴代王朝はこの理論を自らの正当性を合理化することに用いました。中国の歴史上には、赤眉の乱や黄巾の乱といったような色の名前がつけられた乱があります。赤眉の乱とは、18年に起きた前漢を滅ぼし新という国を建てた王莽に対して、漢の再興を求める者たちが起こした反乱であり、漢が火徳の王朝であったために赤を標識として眉を赤に染めたと言われています。

黄巾の乱とは宦官(去勢された男子で身分は低かったが、皇帝の身近にいたため権力をふるうものもいた)によって腐敗してしまった後漢を倒そうと、道教の一種である太平道の張角が指導して184年(いやよ黄巾の乱と語呂合わせで年代を覚えることができます)に起きた反乱です。漢は火徳の王朝であったために、次の土徳の王朝の建設を願い黄色を標識にしたのです。

このように反乱の名前に込められている意味合いが理解できると一層単語を覚えやすくなるのではないでしょうか。

南宋の秦檜は本当に売国奴なのか

南宋の秦檜は本当に売国奴なのか

秦檜と岳飛

そもそも南宋とは北宋が靖康の変で金によって滅ぼされたのちに、北宋最後の皇帝欽宗の弟であった「高宗」が1127年に臨安を都として建てた王朝です。当時、金は強力な国であり南宋にとっては脅威以外の何物でもなく、国内では金との抗戦を主張する武将の「岳飛」と、金の内情に通じており金との和平を結ぶべきであると主張する宰相の「秦檜」が対立していました。

しかし、宰相秦檜は岳飛を筆頭とする主戦派を弾圧して、宋が金に臣下の礼をとり、毎年宋が金に銀25万両、絹25万匹を貢納するという屈辱的な講和条約を結びました。この講和条約のことを紹興の和約といいます。このことから岳飛は長らく愛国の英雄として神格化され、対する秦檜は売国奴として見下されてきました。また、中国では漢民族の裏切り者のことを漢奸と呼び、秦檜は漢奸の代表と言われることもあります。

現在、岳飛の墓の前にはひざまずく秦檜夫妻の像があり、中国人の来訪者は唾をその像に吐き掛けることすらあるようです。ここから漢奸として扱われた人の嫌われようがよくわかると思います。しかし、近年は金との抗戦を国内民族間の争いとし、岳飛を英雄視しない見解もでています。そのため、尊厳よりも自国の安全を和平によって保った秦檜のことはあながち悪く言えないのではないかと思います。

1900年代の秦檜と岳飛~繰り返す歴史~

1900年代にも秦檜と岳飛のような人物がいます。汪兆銘と蒋介石です。汪兆銘は孫文の側近の一人として国共合作に努めるなど活躍しましたが国民政府内で党の主導権をめぐり蔣介石と対立してしまい、日中戦争がはじまってからしばらくして重慶政府を離脱しました。1940年の3月には親日政権である南京国民政府を建て、そのトップになりました。

彼の率いる南京国民政府は講和に努めるなど日本に非常に協力的でしたが、弱腰の姿勢に国民がついてくることはなく失意のうちに日本で1944年に病死しました。彼の死後、日本が敗戦すると汪兆銘と彼に従った人々は中国を裏切り、敵国である日本に協力したとして漢奸と呼ばれ、次々と処刑されてしまったのです。対する蒋介石はかの岳飛のように日本軍に対して徹底抗戦を続けていたのです。

このように歴史を学んでいくと、時代を超えて様々な共通性が存在することに気がつくことがあると思います。そこに気がつくことができると、歴史が繰り返すという言葉の意味も分かってくるのではないでしょうか。

ギリシア・ヘレニズム文化の小話

ギリシア・ヘレニズム文化の小話

ナイキの由来は神様の名前?

現在ルーヴル美術館にある「サモトラケのニケ」という像を知っているでしょうか。勝利の女神ニケが地上に舞い降りて来る姿を表現したもので、羽を広げている姿が印象的です。ロードス島の人々が、セレウコス朝に対する勝利を記念して作りました。実はこの名前、世界的有名ブランドの名前の由来となっていると言われています。勝利の女神ニケの名前を英語で書いてみると、nikeすなわちNIKEとなるのです。すなわち世界的に有名なシューズメーカーであるナイキは、この女神から名前を拝借していると言われています。

ギリシア神話由来の言葉

続いてギリシア神話に由来している言葉をいくつか紹介しましょう。
1つ目はエコーです。この言葉は、おしゃべりな精霊のエコーが罰を受けて相手の話した言葉を数語だけ繰り返すことしかできなくなって、失恋のすえに体がなくなり、こだまだけになってしまったという話によります。

2つ目はパニックです。この言葉は牧畜の神パンが家畜の群れを怯えさせたことによります。

3つ目はナルシストです。この言葉は、美少年ナルッキッソスが水に映る自分の姿を見てその美しさに恋焦がれ、そのうちにやつれて死んでしまったという話によるものです。

以上のように、生活の中で知らず知らずのうちにギリシャ神話由来の言葉を使っていることは、案外多いのかもしれません。

アキレス腱の由来

ヨーロッパ最古の文学としてホメロスという詩人によって作られたとされる『イリアス』、『オデュッセイア』という作品が挙げられることがあります。今回は『イリアス』の内容に触れていきます。『イリアス』はトロイア戦争のクライマックスを描いた作品で、登場人物としてギリシア第一の勇者アキレウスが登場します。

彼は戦争中に大の親友パトクロスをトロイア側の総大将ヘクトルに殺されてしまい激怒し、一騎打ちの末にヘクトルを倒したものの、敵の矢が彼の唯一の弱点であったかかとの筋にあたって死亡してしまいます。このエピソードから、かかとの筋のことをアキレウスの健、つまりアキレス腱と呼ぶようになったのです。

船で山を越えるオスマン帝国の艦隊

船で山を越えるオスマン帝国の艦隊

オスマン帝国とは

オスマン帝国は13世紀末に成立したイスラム教の帝国で、小アジアからバルカン半島、地中海にまでにも勢力圏を拡大したために、ヨーロッパ=キリスト教世界はオスマン帝国の脅威に脅かされることとなりました。しかし、18世紀前後からヨーロッパ諸国も反撃に転じ始め、領域内のアラブ民族の自立によって領土が縮小したために次第に衰退し、第1次大戦でドイツに協力してしまったことが決定打となり1922年に滅亡してしまいました。今回は、その歴史のなかでも強かった時のオスマン帝国の「驚くべき戦法」を紹介します。

オスマン艦隊の山越え

オスマン帝国の第7代スルタンに「メフメト二世」という人物がいました。彼は幼いころから、ビザンツ帝国の都コンスタンティノープルを攻略することを夢見ていました。彼がスルタンになっていた当時、ビザンツ帝国はほとんど全ての領土を失って、残すところはコンスタンティノープルのみといった状況でした。しかし、オスマン帝国の攻撃に頑強に耐え、金角湾という湾には防鎖と呼ばれるとても太い鎖を張って、湾自体を封鎖してオスマン艦隊の侵入を防いでいました。

そこで困ったオスマン艦隊は驚くべき秘策を考え出しました。なんと湾の入り口から少し離れた海岸から湾の深部に向かって山を切り開き、そこに道を作りました。その道に大きな丸太を敷き詰めて油を塗りたくり、夜のうちに船をすべて引き上げて湾の中に艦隊を侵入させることに成功したのです。山を船で越えて来るという事態に驚愕したビザンツ帝国側は戦意喪失してしまい、そのままコンスタンティノープルは攻略されてしまいました。時に1453年のことです。

まとめ

いかがだったでしょうか。以前よりも少しでも世界史って面白いと感じていただけたら幸いです。
ここに紹介したものは世界史の面白い部分のほんの一部なので、これから皆さんが世界史を学んでいく過程でより多くの面白い発見ができると思います。純粋に世界史を楽しく学ぶことが何よりも大切だということを忘れないでください。応援しています。

もしも宿題や受験勉強でお困りの際には、私たち家庭教師に是非ご相談ください!

この記事を書いたのは

現役阪大生ライターT

家庭教師ファーストの登録家庭教師。大阪大学 文学部在籍。学習だけでなくスポーツにも精通。文武両道の教師です。

著作・制作

家庭教師ファースト/株式会社エムズグラント

『質の高いサービスを、良心的な価格で』をモットーに、全国で20年以上家庭教師を紹介しています。実際に担当する教師による体験指導受付中。教育に関する相談もお気軽に。

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