家庭教師ファースト教育コラム社会・歴史の雑学

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徳川家康はなぜ「江戸」に幕府を開いたのか?を現役京大生が解説

  • 社会・歴史の雑学
  • 2024.02.26
  • 現役京大生ライター H

皆さんは、なぜ徳川家康が江戸で政治を行ったか考えたことはありますか?鎌倉幕府が神奈川にあったから、一応説明がつきそうな気もしますが、鎌倉幕府の後、室町幕府や織田信長、豊臣秀吉の政治はどれも京都・大阪周辺で行われていたことを考えると、いきなり関東が日本の中心となるのはおかしくないと思いませんか?

また、平安時代から戦国時代まで、天皇はずっと京都にいたわけです。それを考えるとなおさら、東京の江戸を拠点としたのは不思議です。ということで今回は、なぜ徳川家康は江戸の町を開発したのか、なぜ江戸を自分の拠点かつ政治の中心地としたのか、この謎を探ってみようと思います。この記事を通して、少しでも歴史に興味を持ってもらえたら嬉しいです。

なお、勉強が苦手だなと感じたら、是非私たち家庭教師にも相談してみてください!

織田信長の死から江戸幕府成立の流れ

織田信長の死から江戸幕府成立の流れ

まずはざっくり、織田信長が死んでから豊臣秀吉の政治を経て、徳川家康が江戸幕府をつくるまでの流れを見ていきましょう。

①1582年:本能寺の変で織田信長死去、豊臣秀吉が毛利氏と和睦

②1584年:豊臣秀吉vs徳川家康(小牧・長久手の戦い)

③1590年:豊臣秀吉の全国統一達成

④1590年:徳川家康、豊臣秀吉から国替え(駿河・三河・遠江・信濃・甲斐→関東8カ国)

⑤1592年~1598年:朝鮮出兵

⑥1600年:関ヶ原の戦い

⑦1603年:後陽成天皇の命により、徳川家康が江戸幕府を開く

今回は歴史の授業ではないので、細かいところには触れずに、必要な内容だけ集めてみました。

で、織田信長の死後迅速に毛利氏との戦いを収束させ、織田信長が死んだ後に織田家臣団内で勃発した勢力争いに加わった秀吉は、信長の孫の後見人の地位を手に入れると、柴田勝家など有力な家臣を次々倒し、織田信長の後継者としての地位を盤石なものとします。

そんな秀吉を最も困らせた人物が、徳川家康です。彼は、秀吉が勢力争いで唯一事実上負けた相手です。の小牧・長久手の戦いで苦戦を強いられた豊臣秀吉は、和睦の形で体裁は保ったものの、家康の恐ろしさを、身をもって体感しました。

しかし、家康との和睦後は順調に支配を広げ、で小田原と奥州を制圧し、全国統一を果たします。

この全国統一のタイミングで豊臣秀吉が採った作戦が、徳川家康の領地を、大阪から遠く離れた関東に移す、といったものでした。1590年の段階で生き残っている有力者の中でも、徳川家康は群を抜いて強かったため、家康を暗殺するとさすがに部下の反感を買う、かといって近くに置くことで裏切られるのも怖い、そんな豊臣秀吉は、徳川家康に、関東の発展に尽力するよう命令しました。詳しくは後ほどお話します。

何がともあれ、全国統一を果たした豊臣秀吉には、前から大きな夢がありました。それは織田信長の後継者として、世界を自分が支配するといったものでした。そこでまず手始めに、お隣の朝鮮を攻めます。これが朝鮮出兵です。しかし、朝鮮の強さは予想以上で、結局豊臣秀吉は大敗し、この出兵に参加した武将はことごとくその力をそがれてしまうことになります。

そして豊臣秀吉の死とともに終了した朝鮮出兵のあと、ついに徳川家康はその力を発揮し始めます。豊臣政権を支持する石田三成らを関ヶ原の戦いで倒すと、戦国時代の覇者として、1603年に江戸幕府を開くことになります。

以上が簡単な歴史の流れです。これらを踏まえて、徳川家康が江戸をつくった理由について考えていきます。

江戸を開発した理由①~秀吉の命令~

秀吉の命令

徳川家康が江戸を開発した理由の1つ目は、豊臣秀吉に命令されたからです。

ものすごく当たり前の話なのですが、豊臣秀吉が徳川家康を恐れていたように、徳川家康も自分より大きな力を持つ豊臣秀吉を恐れていたのです。

1つエピソードをお話ししましょう。②小牧・長久手の戦いが終わった後、豊臣秀吉と手を組まざるを得ないことを痛感した徳川家康は、豊臣秀吉に抵抗するのをやめて、豊臣秀吉の拠点である大阪のあたりまで上洛します。

大阪で対面を果たした豊臣秀吉と徳川家康。何とこの時、豊臣秀吉は徳川家康に深々と頭を下げ、こうお願いします。

「家康殿、信長公の盟友であったあなたにも、日本を統一し平和な世の中をつくるという私の理想を手助けしていただけないだろうか。あなたの協力なしでは、平和な世の中をつくることはできない。」

これは、当時日本で最も権力を持っていた豊臣秀吉にとって屈辱的な事ではありましたが、徳川家康を従わせるには仕方なかったのでしょう。また、徳川家康としても、豊臣秀吉の下であると認めることになるとはいえ、豊臣秀吉から頭を下げられたという名誉が手にできると考えると悪い話ではないように思えます。

実際これ以降、徳川家康は豊臣秀吉の命令通り忠実に動くようになりました。

今回徳川家康が江戸を開発することになった理由も、大前提として豊臣秀吉の方が目上の関係性だったということが考えられます。ちなみに、この江戸をつくることになった際の豊臣秀吉側の思惑についても、先ほど触れてしまった部分もありますがお話しします。

豊臣秀吉と徳川家康はお互いに警戒し合う関係性だったので、豊臣秀吉としては徳川家康の力をそぎたいと常々思っていました。そんな豊臣秀吉に良いアイデアが思いついたのは、1590年、関東の小田原を拠点とする北条氏を滅ぼしたときでした。この戦では城下町が壊滅するほどの被害は出ていなかったものの、関東のエリアは小田原と鎌倉以外ほとんど未開の地、といった状況でした。

そこで豊臣秀吉は、当時田舎であった関東地方、特に江戸を開発するよう徳川家康に命令します。これによって豊臣秀吉は、①徳川家康を大阪から遠ざけ、②関東開発のために徳川家康の財力・労力を消耗させることができる、と考えたわけです。

このように、豊臣秀吉、徳川家康2人の視点から考えると、豊臣秀吉の命令は徳川家康の江戸開発に大きな影響を与えていると言えます。

江戸を開発した理由②~朝鮮出兵~

朝鮮出兵

徳川家康が江戸を開発した理由の2つ目は、朝鮮出兵にあると考えられます。

全国統一が達成されたあと、豊臣秀吉が世界進出をにらんで朝鮮に出兵したという流れはお話ししたとおりです。でも実は、この朝鮮出兵を行うという話は全国統一後に出てきた考えではなくて、全国統一を進める中で何度も、豊臣秀吉は部下に、日本の次は朝鮮だと言っていたようです。部下の中には、もちろん豊臣秀吉の理想に共感する者もいた一方で、自分のお金や兵隊が失われてしまうことを考えると、朝鮮出兵にあまり乗り気でなかった部下もいました。その代表が徳川家康です。

とはいえ、実際に全国統一したあと、豊臣秀吉が朝鮮出兵を命じたら、いくら徳川家康でも従わざるを得ないわけです。徳川家康は損をしたくないため、必死に言い訳を考えていました。

そんなとき舞い込んできたのが、徳川家康の国替えでした。これは先ほどお話ししたとおり、徳川家康のお金と労力を削ろうとする豊臣秀吉の罠でしたが、徳川家康の捉え方は少し違っていました。もちろん江戸開発でもお金と労力は失ってしまいますが、それは朝鮮出兵に参加するよりはずっとましです。しかも上手いこと開発してしまえば、江戸は徳川家康の新たな拠点として、投資した分のリターンが来る可能性を十分に秘めていたのです。

このため、豊臣秀吉の罠にあえてはまることで、徳川家康は朝鮮出兵に参加できない言い訳をつくろうとしていた、この考えも結構大きかったのかな、と思います。

江戸を開発した理由③~反対勢力との距離感~

反対勢力との距離感

徳川家康が江戸を開発した理由の3つ目は、徳川家康と相容れない勢力、つまり豊臣秀吉に忠誠を誓う武将たちと距離を取るためと考えられます。

最初の歴史の流れで確認したとおり、豊臣秀吉の死後、豊臣派vs徳川派で関ヶ原の戦いが起こります。この関ヶ原の戦いの10年前である江戸開発開始の頃から、徳川家康は関ヶ原の戦いの発生を予想していたのではないでしょうか?あるいは、豊臣秀吉が死んだ後自分が権力を握るために、反徳川勢力を一気に制圧する戦いを起こしたいと思っていた可能性もあります。

歴史の中で特に有名なものとして、徳川家康の大名配置のお話があります。簡単に言うと、徳川家に仕えている歴が長い武将ほど、徳川を裏切らないという信頼が厚い武将ほど、江戸の近くに配置する、と言った内容ですが、何もこれは徳川家康の時代だけではなくて、豊臣秀吉の時代にも自然発生的にそういう状況が起こっていました。

具体的に言うと、豊臣秀吉の拠点である大阪周辺は豊臣派の勢力が集まっており、全国統一の流れの中で割と早めに制圧された九州・中国・四国の大名も、関ヶ原の戦いでは豊臣側で参戦していることから、ある程度豊臣に対して忠誠を誓っていたのではないかと考えられます。

一方、全国統一の終盤で制圧された関東や東北の武将たちは、あまり豊臣家への忠誠心はなかったようです。豊臣家にとっての外様大名だったわけですね。豊臣秀吉に降伏はしたけど、あまり待遇が良くなく、遅れて仲間入りしたため出世も見込めない。そんなとき豊臣秀吉に追いやられて関東に流されてきた徳川家康は、豊臣版外様大名にとっては敵の敵、つまり頼もしい味方になり得たのではないかと思います。

徳川家康もこのような武将の心理的側面を良く理解していたから、豊臣秀吉への忠誠心が厚い武将ばかりの西日本より、東日本にいる方が、後々豊臣家を滅ぼす際に自分の味方を増やせるという点で都合が良かったのではないでしょうか?

今のところは豊臣秀吉の思い通りにさせておいて、カリスマである豊臣秀吉が死に、豊臣家の体制が揺らいだ瞬間を狙って一発逆転を狙う。このようないかにも徳川家康らしい考えで、あえて関東への国替えに応じたというのも一理ありそうです。

江戸を開発した理由④~地の利~

江戸の地の利

これまで政治的な観点で、徳川家康が江戸を開発した理由を挙げてきました。

しかし、豊臣秀吉からの命令は、江戸を中心に関東を開発しろ、と言ったものではありましたが、江戸を徳川家康の拠点にしろ、とは言われていなかったのです。つまり、徳川家康は、1590年時点で既にある程度発展している鎌倉や小田原を拠点にしても問題なかったのです。また、江戸が当時ものすごい田舎であったことを考えると、なおさら江戸ではなく鎌倉や小田原を拠点とし、幕府もそこに開いてしまえば良かったはずです。

徳川家康が関東の中でも江戸にこだわった理由、これを最後にお話ししたいと思います。

一言で言うと、平野(関東平野)と海(東京湾)、大きな川(利根川)の3つを江戸が備えていたからです。

小田原や鎌倉が城下町や幕府の拠点となった理由は、その周りを山々が囲んでいて、敵が攻めづらいからであったと考えられています。確かに、山に囲まれた地域は、防御の面では文句なしです。しかし、物流の面で考えると、他の地域から物を運びにくいため、商業が思うように発達せず、都市化を阻害している要素にもなっていたと言えそうです。

一方の江戸には、周囲に山々はありませんが、代わりに川と海が周りを囲んでいるので、ある程度敵から守りやすい地形であると言えそうです。また、海と川の最大の利点は、船を使って、全国各地から商品を輸送することができ、都市として必要な物流を大きく活性化させることができる点にあります。実際江戸時代には、天下の台所と呼ばれる大阪から、たくさんの食材が船で江戸まで運ばれていたわけですし、そう考えると徳川家康の先を見通す力はすごいですよね。

このように、徳川家康が関東の中でも特に江戸に目をつけた理由は、周囲に山のない平野、大きな川、海の3つの地理的条件がそろっているからだと考えられます。

江戸幕府成立後の江戸

江戸幕府成立後の江戸

まとめに入る前に、徳川家康が開発した江戸はその後どうなったのか、簡単に紹介したいと思います。

⑴江戸城

江戸の町のメインシンボルは、江戸城です。最初はお祭りで見るやぐらほどしかないような、みすぼらしい姿だったとも言われています。この江戸城に入った徳川家康は、メインシンボルとしての存在感を出せるように、何度も拡張します。完成形は徳川家康が死んだ後の1636年であったとされていますが、その後1657年に江戸中を襲った明暦の大火災で本丸や天守閣が消失しました。修復した方が良いというアイデアも出たそうですが、保科正之という政治家が、江戸城のためにお金を無駄遣いすべきでないと提案したことで再建はされませんでした。

その後、1868年になり、明治維新が始まったころ、首都が京都から江戸に変わった段階で、江戸は東京に改名。江戸城も東京城に改名し、天皇が住む皇居になりました。

⑵日本橋

現在金融街として発達している日本橋は、江戸時代では商業のインフラを支える五街道の起点であり、日本の中心と言っても過言ではない場所でした。全国から送られてきた商品を貯蔵するため、周りには土蔵を備えた家がたくさんあり、材木や米俵であふれかえっていました。また、下の川からは舟がやってきて、新鮮な魚を水揚げし販売していたため、日本橋魚市場としても親しまれていました。

⑶棟割長屋

これは、江戸に住む人の数が多すぎたこともあり、江戸中あちこちで見られた、今で言うところのアパートのようなものです。一部屋2.7m×3.6mほどの小さな部屋が10個前後入っており、井戸やトイレは共同で、部屋の外には住んでいる人の店がある状態です。住まいと仕事場が一緒になっているため移動は楽ですが、部屋の狭さと他の部屋に住む人とのトラブルも多そうな造りですね。

⑷人口

最後に江戸の人口について触れておきたいと思います。

江戸には政治の諸機関や、旗本・御家人ら役人の屋敷、日本中の藩邸と藩主の妻子が集中します。また、商人や職人もたくさんおり、1721年時でも約100万人の人が住んでいたと考えられています。これは、1801年のパリが55万人、ロンドンで87万人だったことを考えると、どれだけ人がたくさんいて、江戸が栄えていたかよくわかるデータとなっています。

まとめ

今回、徳川家康が江戸を開発し、幕府の拠点とした理由として主に、①豊臣秀吉の命令、②朝鮮出兵不参加の言い訳、③反徳川家勢力と距離を取り反豊臣家勢力と仲良くする、④平野・海・川と言った地理的好条件、の4つを挙げました。

このように、当たり前に思える歴史上の出来事でも、掘り下げてみるとその地理的・政治的背景を知ることができ、自分が生きる上で役に立つ考えもたくさん身につけることができます。

皆さんも、当たり前の歴史について調べてみて、新たな発見をしてみてはいかがでしょうか?

また、お勉強に関してお困りの際には是非私たち家庭教師にもご相談ください!

この記事を書いたのは

現役京大生ライター H

家庭教師ファースト登録家庭教師。京都大学 法学部在籍。塾講師の経験もあります。文系教科に自信あり。

著作・制作

家庭教師ファースト/株式会社エムズグラント

『質の高いサービスを、良心的な価格で』をモットーに、全国で20年以上家庭教師を紹介しています。実際に担当する教師による体験指導受付中。教育に関する相談もお気軽に。

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