家庭教師ファースト教育コラム社会・歴史の雑学

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【日本史編】社会が好きになる「雑学」15選を現役阪大生が解説

  • 社会・歴史の雑学
  • 2023.07.26
  • 現役阪大生ライターK

私たちは過去の出来事を実際に見ることはできません。しかし、先人たちが遺した文献や資料を、現代の研究者たちが調べつくすことで、私たちは過去に何が起こったか、大昔の生活はどのようなものだったのか、つまり歴史を知ることができます。その歴史にはきっとまだあなたが知らない面白い話がたくさんあるでしょう。今回は日本史に焦点を当てて紹介していきます。

織田信長のはじめてエピソード

織田信長のはじめてエピソード

あなたもよくご存じでしょう、織田信長についてのエピソード集です。幼少のころは尾張の国のうつけ者と呼ばれつつも、天性の頭脳と豪快さで天下統一を目指した彼ですが、新しいことに対する興味が強く、偏見を持たずに物事を判断できる優れた人物だったようです。日本人で織田信長がはじめてしたことを4つ紹介していきます。

地球は丸い?

イエズス会というキリスト教の団体が日本にも布教しようと来航し、布教の許可をもらうために信長に謁見したことがありました。その際、宣教師が持ってきた信長への献上品の中に地球儀がありました。
 
当時の日本人は、地面は平らであり、空が上、地面が下という感覚しか持っていませんでした。しかし、そんな時代であっても、信長は宣教師から説明を受けるとすぐに「地球が球体である」と理解したそうです。この柔軟な理解力があそこまでの大躍進を生んだのでしょう。

差別をしない織田信長

1860年代、アメリカで起こった南北戦争まで黒人たちは差別を受け続けていました。その差別は今もなお続いている大きな問題です。しかし、300年前の日本で黒人に対する差別を全くしなかった人物がいます。そう、織田信長です!
 
1581年あるイタリア人の宣教師が、奴隷として黒人を信長の前に連れてきました。偏見を持たず、新しいものに興味津々な信長はその黒人を「弥助」と名付け、自分の家臣として召し抱えました。その当時では、ほかの戦国武将のもとにも黒人たちが訪問していたようですが、家臣にした武将は信長が最初だと言われています。奴隷だった弥助は、その呪縛を解いた信長を心の底から信頼していたと思われます。信長は弥助に城を与え、領地をも与えようとしていたほど信頼関係があったそうです。
 
しかし、1583年本能寺の変で、信長が亡くなったことで、弥助が城主になることは叶いませんでした。信長を殺した明智光秀は弥助に対して「黒人は動物も同じ。殺すまでもない。」と言って、南蛮寺に追いやりました。このことからも、織田信長と明智光秀の器の差が見て取れるのではないでしょうか。

日本史上はじめてスナイパーに狙われた!?

織田信長が当時最強と言われた武田氏に勝利した長篠の合戦。その際、日本ではじめて鉄砲を戦に利用し、鉄砲の3段撃ちにより戦国時代の戦い方の常識を変えてしまいました。しかしその反面、信長自身が鉄砲で命を狙われることもあったそうです。しかも、歴史上はじめて鉄砲で狙われたのも信長だったようです。
 
信長を最初に狙った、つまり日本ではじめてスナイパーとなったのは、甲賀忍者の杉谷善住坊です。信長に敗北した六角義賢が暗殺を命じたそうですが、信長を仕留めるという大役に緊張したのか、銃弾は馬上の信長をかすめただけでたいした傷は与えられませんでした。その後、彼は信長に処刑されたそうです。ほかにもスナイパーが信長を狙っていたようですが、本能寺の変まで生きていたということはいずれも失敗したのでしょうね。

日本人ではじめて食べた

織田信長に謁見した数々の宣教師たちはたくさんの南蛮由来の食べ物を献上しました。それらの食べ物は、南蛮貿易が行われた九州の大名が先に食べていた可能性はありますが、信長がはじめて食べたと考えるとロマンがありますよね。早速見ていきましょう。
 
宣教師ルイス・フロイスがバナナと金平糖を献上しました。バナナに関しては記録がありませんが、金平糖はその美しいお菓子に魅了されたそうです。また、そのような甘いお菓子はたくさん宣教師たちが持ち込んだようで、布教活動に利用していたと考えられます。
 
宣教師が献上した記録も、それを信長が飲んだ記録すらありませんが、日本人で最初にワインを飲んだのは信長であると言われています。ワインというのはキリストの血液であり、しかも信長は新しいものが大好きです。それならばワインを献上しない理由も、飲まない理由はありません。ちなみに、豊臣秀吉がワインを飲んだことは記録に残っています。
 
このように、偏見を持たず新しいものをどんどん取り入れ、それらを楽しみ、天下統一を目指した織田信長。現代人も彼の姿勢に学ぶべきことがあるのではないでしょうか。

豊臣秀吉のかっこいい?かっこ悪い?エピソード

豊臣秀吉のかっこいい?かっこ悪い?エピソード

農民出身なのにもかかわらず、織田信長に仕え、果ては天下統一まで成し遂げた豊臣秀吉。雪の降る寒い朝、織田信長が履く草履を自分の懐で温めておき、信長にその思慮深さを認めさせたというエピソードはあまりにも有名です。彼の優秀さを表す逸話は数多くありますが、その中でも特にかっこいいものとかっこ悪いものを1つずつ紹介していきます。

中国大返し

1583年、明智光秀の謀反により、本能寺の変で織田信長が亡くなりました。秀吉は現在の岡山県西部である備中にて高松城を攻撃していましたが、信長が亡くなったと聞くや否や、急いで明智光秀のいる京に向かいました。その際、光秀に負けてしまったら意味がないと考え、蓄えてあった金銀財宝をすべて自軍の兵士たちに分け与えました。
 
自分のすべてを投げ打ってこの戦いに賭けようと考えた秀吉の覚悟はどれほどのものだったのでしょうか。この覚悟を決めた大胆な行動により一瞬で京に上がり、明智光秀を打ち取ることができました。この出来事により、秀吉が天下統一する第一歩を踏み出すことができました。秀吉の優秀さを如実に表す代表的なエピソードでした。

どうしても我が子を跡継ぎに

全国各地の戦国武将を従え、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉。しかし、彼にはなかなか子供が生まれなかったとも知られています。
この時代、武将たちにとって自分の跡継ぎを生むことはとても重要でした。もし跡継ぎがいなかったら、リーダーとなっていた武将が亡くなった時に、その一族が断絶することで、部下たちの結束が瓦解し、ほかの戦国武将に国を乗っ取られてしまう恐れがあったからです。
 
そんな中で子宝に恵まれなかった秀吉は非常に焦ったことでしょう。その焦りからか、自分の血筋を残すということは諦め、豊臣秀次を養子として迎え入れました。ところがその直後、秀吉の血を継いだ息子である秀頼が生まれてしまいます。本来なら喜ばしいことですが、どうしても息子を跡継ぎにしたい秀吉は、秀次を邪魔に思ってきてしまいます。秀次についての悪い噂をでっちあげたりして、最終的には切腹させるまで追い込みました。秀頼を跡継ぎにしたいという気持ちはわかりますが、ここまで必死で、しかも卑怯だとちょっとかっこ悪いと言わざるを得ません。
 
豊臣秀吉のエピソードを紹介しましたが、若いころは自分のすべてをかけて戦うほどかっこよかったのです。晩年になって卑怯でかっこ悪い姿を晒してしまいましたが、もしかしたらあまりにも強い権力を持ってしまうとこのようになってしまうのかもしれません。皆さんも彼の歴史から学んで、強い力を手にしても傲慢にならないように気をつけましょう。

徳川家康のちょっと汚いエピソード

徳川家康のちょっと汚いエピソード

豊臣秀吉の死後、関ケ原の合戦を勝ち抜き、その後天下を治めた徳川家康。信長、秀吉が亡くなるのを我慢強く待ち、幕府を立ち上げ戦乱の世を終わらせた素晴らしい人物です。しかし、彼が人を化かす狸だと揶揄されたり、なにかと汚い手を使う卑怯者だというイメージを持っている人も少なくありません。ここでは彼の戦術や政治、精神性ではなく、物理的な汚さを取り上げていきます。

馬上で漏らしちゃった

戦国武将といえば、強くて血気盛んな勇気ある人物を思い浮かべるでしょう。徳川家康も幼いころから負けず嫌いで武将らしい武将でした。しかしそんな家康にも思わず顔を覆ってしまうような恥ずかしい出来事がありました。
 
1573年、家康は浜松城で武田信玄と戦っていました。当時最強だった武田軍になすすべもなく、敗北してしまいますが、とんでもなく強かった武田軍に勇気をもって挑んだというのが評価され、のちに「海道一の弓取り」と称されます。ここまで聞くと家康の武勇伝のように感じますが、この戦いの中で家康にとって非常に恥ずかしいことが起こります。
 
武田軍に敗れ、敗走しているときに、あまりの武田軍の強さに震え上がり、脱糞してしまったのです。ここまで恥ずかしいことはありません。家臣たちには内緒にして、これは味噌だということにしたそうです。その直後、家康はビビり散らしてしまったことへの自戒の念を込めて、家臣に自身の肖像画を描かせます。それなりに有名な絵画ですが、もしこの話が本当なら、漏らしながら絵を描かせたということになります。せっかくの武将の威厳が台無しですね。

秀吉と連れ○○

豊臣秀吉が関東の小田原を制圧しようとする際、今後小田原をどう治めていこうかを家康と相談しようと考えました。なぜそのような考えに至ったかは分かりませんが、家康に小田原が一望できる場所で「連れションしよう」と誘います。家康もこの誘いに乗り、今後について話し合いました。その相談内容は、この関東を家康にあげる代わりに、徳川家が代々守ってきた三河とそこにある城を秀吉に譲ってほしいというものでした。
 
秀吉が「腹を割って話すために連れ小便に誘った」というのでしぶしぶ受け入れ、三河を秀吉に譲りました。家康はかなり悔しかっただろうと思いますが、その当時は秀吉が圧倒的な力を持っており、逆らうことができませんでした。しかし、その後関東を大いに発展させ、最終的には天下を手に入れた家康は、我慢強く、どんな状況でもあきらめない強い心を持っているといえます。
 
家康に関する2つの汚いエピソードを紹介しましたが、どうでしたでしょうか。脱糞や連れ小便に目が行きがちですが、家康が自分の失敗を反省し、しかも我慢強いということもうかがえる話でもありました。家康のエピソードはたくさんありますが、現代においても通ずるような成功の秘訣が隠されているものが多くあります。ぜひご自分でも調べてみてください。

日本史雑学ミニ豆知識集

日本史雑学ミニ豆知識集

ここまでは織田信長、豊臣秀吉、徳川家康を少し掘り下げていきましたが、ここからはいろいろな人物のミニ豆知識を紹介していきます。どれもあまり知られていない、しかも面白いものばかりです。

ちょっと怖い足利尊氏

室町幕府を開き、政治的にも優秀な活躍をした足利尊氏ですが、全く死を恐れないというちょっと怖い性格でした。戦の際、矢がどんなに飛んできたとしても、笑いながら突撃していたとのことです。しかし、雲行きが怪しくなったとたん、急に自害しようとするなど危うい行動をとっていました。よく言えば勇猛果敢で潔い人物ですが、現実にこんな人がいたら心配になってしまいますよね。

ゴーストライター吉田兼好

『徒然草』の作者として有名な吉田兼好。『太平記』によると、文章を書くことにおいて素晴らしい才能があったからか、高師直に頼まれてラブレターを代筆しました。しかし、その手紙はすぐに捨てられてしまったようで、それを恨んだ高師直は、吉田兼好と二度と会わないことにしたそうです。こんなことにならないようにあなたはちゃんと自分でラブレターを書きましょう。

ブサイク源義経

鎌倉幕府を開いた源頼朝の弟、源義経。幼少期から武の才能があったとされており、源氏と平氏の決戦である壇ノ浦の戦いでも大活躍しました。そのため現代では、彼を扱った漫画やアニメ、映画などにおいて、イケメンでかっこいい人間としています。しかし、実際には背が低く、色白で、出っ歯だったとされています。これは最終的に源頼朝が義経を殺すという結果となったので、その出来事を少しでも正当化するために義経をブサイクだったと歴史書に書かせた可能性もあるようです。真実は闇の中ですが、義経にはかっこよくいてほしいものですね。

スナイパー明智光秀

この記事で織田信長がスナイパーに狙われていたことについて言及しましたが、明智光秀も射撃の名人でした。『明智軍記』という書物によると、46m離れた場所から100中68発を的の真ん中に当てたそうです。本能寺の変で信長を討った光秀ですが、もしかすると彼がスナイプして殺したのかもしれません。このような情報を知ると、ほかの出来事とつなげて新たな想像ができて楽しいですよね。

虫が苦手な武田信玄

肖像画を見ても、彼の人生を見ても、強くてかっこいい渋いおじさんというイメージを持つことでしょう。戦国最強とうたわれた武田信玄ですが、実は芋虫が大の苦手だったそうです。どんな人間にもちょっとかわいい面はあるものですね。

聖徳太子の肖像画

あなたも見たことがあるであろう聖徳太子の肖像画。しかし、彼が頭にかぶっている冠、服、笏は聖徳太子が生きていた時代には存在していなかったそうです。ちなみにそれらの装飾品は律令国家が成立してからのものでかなり後のものとのことです。

坂本龍馬の読み方は?

敵対関係にあった薩摩藩の西郷隆盛と、長州藩の桂小五郎の間を取り持つことで薩長同盟を結ばせ、その後大政奉還を成し遂げた幕末の志士坂本龍馬。歴史上の人物で名前の読み方が正しくわからない人は少なくありませんが、実は坂本龍馬もその一人でした。発見されたある手紙の中で「龍馬」を「良馬」と書き間違えたおかげで、現在読み方が「りょう馬」だと判明しました。

まとめ

ここまでこの記事を読んでいただきありがとうございました。たくさんの人物のエピソードを紹介しましたが、たった10人しか出てきていません。歴史上で有名な人物は数多くいますし、彼らのエピソードもいくらでも掘り下げることができます。
 
また、歴史というのは研究を積み重ねることで、新しい事実が発見されたり、今までそうだと考えられていたものが変わってしまうこともあります。歴史は流動的なのです。今回紹介した豆知識は、歴史の流れや出来事の知識を頭に入れておくことで、さらに面白く興味深いものとなります。さあ、歴史の教科書を開いて勉強しましょう!
 
もしも宿題や受験勉強でお困りの際には、私たち家庭教師に是非ご相談ください!

この記事を書いたのは

現役阪大生ライターK

家庭教師ファーストの登録家庭教師。大阪大学経済学部在学。文系指導はお任せください!

著作・制作

家庭教師ファースト/株式会社エムズグラント

『質の高いサービスを、良心的な価格で』をモットーに、全国で20年以上家庭教師を紹介しています。実際に担当する教師による体験指導受付中。教育に関する相談もお気軽に。

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