
家庭教師ファースト教育コラム理科・科学の雑学
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日本は弓なりに島々が連なった弧状列島で、日本海をはさんでユーラシア大陸と隣り合う島国です。ですが、人類が誕生するよりもずっと昔にさかのぼると、私たちが知る日本の姿はどこにも見られません。なぜならその時代、日本はユーラシア大陸の縁にあり、まさに「大陸の一部」だったからです。日本海の形成、フォッサマグナ、東西圧縮……気の遠くなるほどの長い時間をかけて現在の姿へと形を変えてきた日本列島。そこには一体どんなドラマが隠されているのでしょう。今回は知られざる列島誕生の歴史を辿っていきます。
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この記事の目次
日本列島の成り立ちを知るために、まずはプレート運動について理解しなくてはなりません。地球は地表から中心に向かって地殻・マントル・核の三層構造をなしていて、地殻とマントルはどちらも岩石からなりますが、岩石の種類が違うために区別されます。それではプレート=地殻かというとそうではなく、プレートとは地殻とマントルの最上部を合わせたおよそ地下70㎞~150㎞までのことを指します。
マントルの一部も合わせてプレートと呼ぶのは、その境目で「硬さ」が変わるからです。マントル最上部までは、温度が低く高密度で硬い岩盤となっている一方で、それより地下深く300㎞あたりまでのマントルは地球内部の熱が伝わり高温となるために、比較的柔らかく流動的になっています。岩石でありながら流動的というのはイメージが難しいかもしれませんが、ゼリーや水あめのように長い時間をかけてゆっくりと動くということです。この硬い部分とその下の柔らかい部分という区分に着目してリソスフェア(岩石圏)・アセノスフェア(岩流圏)とも言います。つまり地殻+マントルの一部=プレート=リソスフェアであり、プレートは柔らかいアセノスフェアの上をスキーを滑るようにして動いているのです。
プレートは1年に数cmという速さで動いています。その原因はプレートも合わせたマントル全体で生じる「対流」にあり、よく味噌汁の比喩で説明されます。味噌汁は空気によって冷やされることで表面近くから先に温度が下がっていきます。すると、温かいままの底部分との温度差ができるため、冷めて重たくなった表面の汁が下降し、反対に温かい底の汁が上昇するという対流が起こります。マントルも岩体ではありますが、これと同じように温度差により地球内部で上から下へとかき混ぜられているのです。後述しますが、プレートはある部分で地下に沈み込むことがあります。沈み込んだプレートはさらにマントル深部まで下降していき、マントル対流の大きな要因となるのです。
現在、地球は十数枚のプレートに覆われていますが、これらの相互運動によって様々な地学現象を説明しようとする理論を「プレートテクトニクス」といいます。プレートテクトニクスでは、おもにプレート境界に注目します。大地形の形成や地震などの身近な地学現象の多くがプレート境界で起こるからです。プレート境界を大別すると、広がる境界、ずれる境界、そしてせばまる境界の3つに分けられます。名前からそれぞれイメージはつきやすいと思いますが、今回は日本列島の誕生に大きく寄与する「せばまる境界」、さらにその中でも「沈み込み帯」のみを詳しく取り上げたいと思います。
せばまる境界を専門的には「収束境界」と言います。この収束境界のなかでも特に、一方のプレートがもう一方の下に沈み込んでいくような境界を「沈み込み帯」と言います。隣り合うプレートの密度に差があるとき、密度の大きいプレートが密度の小さいプレートの下に沈み込んでいくのです。
こうした沈み込み帯が見られるのは、主に大陸プレートと海洋プレートという種類の違うプレート同士が接する場所です。大陸地殻をのせているのが大陸プレート、海洋地殻をのせているのが海洋プレートですが、大陸地殻の方が海洋地殻よりも分厚くなっているため、プレートに対してマントルが占める割合は海洋プレートの方が大きくなります。そしてマントルは地殻に比べて密度が大きいので、マントルの割合が大きい海洋プレートの方が大陸地殻よりも密度が大きいことになります。つまりこうして大陸プレートと海洋プレートが接する境界では海洋プレートが大陸プレートの下に沈み込むのです。
沈み込み帯のある場所では「海溝」と呼ばれる地形が発達します。海溝は海底において溝のように深まった窪地が弧状に細長く続いていく地形です。弧状になるのはプレートが地球の球面に沿った球殻になっているからで、凹んだピンポン球の縁の部分が同じく弧状になっていることを想像するとわかりやすいです。
そしてこの海溝周辺こそ様々な地学現象が起こり、列島誕生において主要なドラマが繰り広げられた舞台となっています。そこで、とりわけ重要な2つの地学現象を見ることで、なぜ海溝が日本の成り立ちに関わってくるのか、その理由を明らかにしましょう。
まず1つめは「付加体の形成」です。海洋地殻の表面には長い年月をかけ海洋生物の死骸や砂や泥などが堆積していきます。プレートが沈み込んでいく過程で、これらの堆積物が大陸プレートの縁で剥ぎとられ、大陸プレート側に付け加えられていくことがあります。これが付加体です。付加体は大量に積み重なったり何らかの原因で隆起したりすることで陸地化し、海底でしかできるはずのない岩石や貝の化石などを地上で見せてくれます。
2つめは「マグマの生成」です。マグマとは地殻やマントルを構成する岩石が溶けて、液体と固体が混ざりあう「おかゆ状」になったもののことです。マグマは地球上のどこにでもできるわけではなく、ある条件が揃った限定的な場所で作られるものであり、その代表的な場所こそ海溝なのです。海溝でのマグマの生成は次のようにとても複雑な過程を経ています。
地下に沈み込んでいったプレートを「スラブ」と言います。スラブは大陸プレートとこすれ合いながら、さらに地下深くアセノスフェアへと沈み込んでいきます。このとき、スラブ上側に接するマントルは引きずられて一緒に下降していく一方で、それを補うようにして反対に上昇していく流れも生まれ、スラブにマントルが乗り上げる形となります。さらにここで、圧力が高まっていくスラブからは海底を移動してくる過程で含んだ大量の水が放出されることになり、その水はやがてスラブに乗り上げたマントルへと移動していきます(岩石が水を含むというのは不思議かもしれませんが、ここでは岩石を構成する鉱物が水を含む構造になっているとだけ理解してください)。
通常、地球内部のマントルは1000℃を超す高温状態にも関わらず固体です。これは地表よりも非常に高い圧力がかかることによって融点が上がり溶けにくくなっているからです。ところが、ここに水が加わると融点はぐっと下がります(こちらも、鉱物の構造によって水分子が鉱物同士の結びつきを解け易くすることがあるという理解で十分です)。スラブと接するマントルから上昇するマントルへと水は受け渡されていき、ここでようやくマントルが溶けるための温度、圧力、水の条件が整い、マグマが生成されます。つまり厳密に言うと海溝自体でマグマができるのではなく、それよりも大陸プレート寄りの地下深くの上昇するマントルで生成されるということです。
さて、固体から液体になることで周囲より密度が下がったマグマは、どんどん上昇をしていき、大陸地殻の下でマグマだまりを作ったり、地上へ噴き出て溶岩となったりと、いわゆる火山活動として確認されます。ここまでで気づいたかもしれませんが、海溝付近での地学現象は大陸プレートに新たな陸地を形成する働きがあるのです。付加体は大陸の縁にのりあげて、マグマは地下や地表で冷え固まることで、陸地を成長させ、日本列島のもととなった土台を築いていきます。これこそが沈み込み帯、海溝が重要な理由なのです。
列島誕生を辿るまえに、最後にもうひとつ日本の下に潜むプレートについて確認しておきます。日本は現在、太平洋プレート、フィリピン海プレート、オホーツクプレート、ユーラシアプレートの計4枚のプレートがひしめき合うプレート大国となっています。そして太平洋プレートとフィリピン海プレートがそれぞれ日本の下に沈み込んでいくために、日本海溝や南海トラフ(海溝よりも浅い溝の地形)が形成され、地震や火山が多い国となっていることは周知のことかと思います(ユーラシアプレートやオホーツクプレートに関しては未だにその動向がはっきりとはわかっていません)。
加えて、日本列島が時代を経るにつれ姿を変えてきたように、プレートも位置や形を変え、生成消滅しているのだということを忘れてはいけません。実は昔、太平洋プレートは今よりずっと南に位置していた小さなプレートで、かわりに「イザナギプレート」という海洋プレートが大陸プレートと接していました。イザナギプレートは日本列島の基盤をつくる働きをしたのち、約5000万年前には完全に沈み込み消滅しました。以来、列島の形成と歩みを共にしながら現在の4枚のプレートの位置関係は形成されていったのです。
ここまで、プレート運動や沈み込み帯の活動について整理してきましたが、ここからはこれらの知識をもとにいよいよ日本の成り立ちに迫っていきます。今回はプレート運動に着目していますので、その観点から列島史を4項目にわけて説明していきたい思います。
関東から長野県中部を通り三河湾を超え近畿、四国を横断し九州まで続いていく長大な断層を「中央構造線」と言います。西日本はこの断層を境に南北にわけることができ、北側の地質と南側の地質は異なった特徴をもつことがわかっています。この中央構造線こそ列島誕生の最初に起きた大きなドラマの痕跡と言っていいでしょう。
およそ1億3000万年前、白亜紀と呼ばれる恐竜のいた時代からスタートします。このとき日本の基盤となった地殻はまだヨーロッパ大陸の端、朝鮮半島の北側からロシア沿海州あたりにかけて存在していました。これは中央構造線よりも北側、現在の日本海側の基盤にあたり、火山や付加体によって新たな地質体を形成しながら少しずつ成長を続けていました。
当時、大陸の下に沈み込んでいたのはイザナギプレートです。ところが、イザナギプレートは海溝に対して垂直方向ではなく、北上する形で斜めに沈み込んでいました。これにより海溝に近い大陸の縁部分では、イザナギプレートの動く方向へと一緒に引っ張られて横ずれ断層ができていました。横ずれ断層とは力が加わることで岩盤にひびが入り「⇆」の形に食い違ってしまう断層を指します。そんな中で、朝鮮半島付近よりもさらに南から、横ずれ断層の運動によりいつかの岩塊が北上してきました。それが中央構造線の南側にあたる部分なのです。この岩塊が正確にどこからやってきたのかはわかっていませんが、イザナギプレートに引っ張られてやってきた岩塊は約5000万年の時間をかけてついに大陸の縁に合体し、日本列島の基盤は大きな成長を遂げました。この合体の名残りが中央構造線なのです。
大陸合体のあと、日本列島の土台を築いたイザナギプレートはその後も大陸プレートへの沈み込みを続け、およそ5000万年前に完全に消滅しました。かわって大陸プレートと接するようになったのが太平洋プレートです。太平洋プレートもイザナギプレートと同様に付加体を形成していくのですが、そんな中これまでとは一味違うダイナミックな地学現象が発生します。それが大陸の分裂です。
およそ3000万年前、恐竜が絶滅し大型哺乳類が闊歩する時代に、大陸地殻は付加体からなる脆い地質体を境に裂け目ができ、徐々に沈降していきました。大地震や「カルデラ噴火」と呼ばれる通常の噴火よりも大規模な噴火を伴いながら、現在のアフリカ大地溝帯のように少しずつ陸地が裂けていったのです。するとそこには河川が流れ込み、湖や湿地が築かれました。その後も大陸の拡大は続き、500万年が経過するころには湖は完全に海とつながり入江と化しました。そして最後には、切り離された陸地は完全な島となり、島と大陸の間には日本海が形成されました。分裂が始まって1500万年後のことです。
このような大規模な現象は一体なぜ起こったのでしょうか。日本海の海底の地質を調べると、それは大陸地殻を形成する岩石とは異なり、海洋地殻を構成する岩石であることがわかりました。すなわち、ただ大陸地殻が沈降しただけではなく、海洋地殻を生み出すような、いわばミニ海洋プレートの誕生のような活動が起こっていたことになります。実はこの謎を解くカギもやはりプレートの沈み込みにあるのです。
太平洋プレートは現在残る十数枚のプレートの中でも最も密度の高いプレートです。そんなプレートが沈み込み、スラブとして大陸プレートの下のアセノスフェアへどんどん侵入していくと、アセノスフェアでは巨大な上昇流が生まれます。マグマの生成でも説明をしたスラブと連動したマントルの動きがより大規模な事態で発生したということです。大陸プレートの地下で、大量のマントルがスラブの沈み込みと逆方向、すなわち東へ移動したことにより、太平洋プレートの海溝、そして大陸プレート自体も東へと引き伸ばされていくことになりました。その表れこそ大陸の分裂なのです。引き伸ばされた分だけ地殻は沈降し、地下では大量のマグマが生成され、海底火山の噴火により日本海の海底となる新たな地殻が形成されていったのです。
ところで実は、このとき切り離されていた日本列島の方でも、もうひとつ重大な事態が発生していました。列島が真っ二つに裂ける「列島開裂」です。初めはひとつの棒状に切り離されていた日本は、日本海拡大に伴って東へ移動していくなかで、そのほぼ中央部で見事2つに割れていたのです。分裂した2つの島は、西日本は時計回りに45度、東日本は反時計周りに25度と、観音開きのようにそれぞれ方向転換しながら移動していきました。これによって、日本の形は現在のような逆「く」の字の弓なり型に近づくのですが、しかしその真ん中には開裂による大きな溝ができてしまうことになったのです。
この溝がその後どうなるかは次項にゆずるとして、ひとまず列島開裂の原因を見てみましょう。有力な説としては、フィリピン海プレートが北上してきた影響が考えられています。ちょうど日本列島が海を移動してきた1500万年前、時同じくしてフィリピン海プレートも今の九州の南あたりから北上してきて、西日本とプレート境界がちょうど平行になるように位置付けました。すると東日本へは太平洋プレートが沈み込んで、西日本にはフィリピン海プレートが沈み込むという事態になり、このことが日本列島に二方向からの力を加え、分裂を招いたのではないかと言われています。
凄まじい勢いで拡大を続けていた日本海も1500万年以降には活動を止め、日本列島は現在の位置に落ち着きました。しかしその姿はまだまだ現在のそれとは全く違います。なんといっても西日本と東日本は大きな溝によって二つに分断されています。この溝を「フォッサマグナ」と言います。関東から中部地方にかけて広がる幅100㎞、深さ最大6000mにも及ぶ巨大な溝であったと言われています。また、フォッサマグナ西側の境界のことを糸魚川―静岡構造線と呼び、中央構造線と同様、地質が変わる境目となっています。東側の境の方は未だ不明瞭ですが、有力なのは利根川構造線であり、フォッサマグナが新潟から静岡までと文字通り日本を縦断していることがわかります。
もちろん現在どこにも溝のようなものは見られません。むしろこれらの地方は日本でも最高クラスに標高の高い山々が連なる場所となっています。ということはすなわち、これだけの巨大な溝が何らかの現象によって埋まり、おまけに急峻な山々まで生み出してしまったということです。果たしてそれは一体どのような現象だったのでしょう。
フォッサマグナに堆積した地質を見ると、北部と南部で異なっていることがわかります。これは溝を堆積させた要因自体が違うことを表してるので、その成因をみるときは別々に考える必要があるようです。まず北部からみてみると、こちらは地表で風化・侵食をうけた岩石が砂や泥として堆積したものや、日本海拡大に伴う海底火山からの堆積物が長い年月をかけて絶え間なく降り積もっていたことが推測されます。言うなればこれは、ごく自然な活動によって溝が埋まっていったということです。自然というのは、こういった風化・侵食・堆積の関係は、年代や年月を別にして、日本のあらゆる地域で起こっているからです。ただし、そういった地域がどこもかしこも海から陸地へと変化してくわけではないので、堆積物がどうして陸地化するほど、それも北アルプスなどの山々を形成するほど隆起したのかという問題は残ります。これについては南部フォッサマグナと次項の東西圧縮が肝になってきます。
南部フォッサマグナをみると、そのほとんどが海洋性の堆積物や海底火山由来の岩石で、風化・侵食からなる堆積岩は見られず、またそれらが途切れ途切れに時間をおいて堆積していることがわかります。これは北部とは対照的です。北部では自然な風化・侵食・堆積作用が溝を埋めていった一方で、南部では明らかに別の場所で形成された遠い海の堆積物が一定の間隔でここに運び込まれているということです。結論から言うと、南部フォッサマグナの不思議な地質は「火山弧の衝突」の仕業なのです。
太平洋プレートとフィリピン海プレートという海洋プレート同士が接する境界には「伊豆―小笠原海溝」があり、密度の大きな太平洋プレートがフィリピン海プレートの下に沈み込む形となっています。すると、マグマはフィリピン海プレート側の地下深くで生成されることとなり、フィリピン海プレートの縁には海底火山が列をなします。「伊豆―小笠原火山弧」です。現在では伊豆大島、三宅島、八丈島などの島々が関東の南に直線になって続いており、また伊豆火山弧の本州側の先に位置するのが伊豆半島です。
ここで再び1500万年前です。列島開裂の項でも述べたように、フィリピン海プレートが移動してきたばかりの西日本へ沈み込みを始めました。すると当然、伊豆―小笠原海溝でできた海底火山たちも、フィリピン海プレートにのって西日本に向かって北上していきます。そして、プレートは地下へ沈んでいく一方で、火山たちは西日本の東端に衝突したまま乗り上げていき、大陸プレートへ付け加わっていきます。そう、付加体です。この結果、南部フォッサマグナは沖合からの堆積物や海底火山の岩石が溝を埋めていくことなり、同時に火山弧の衝突がもたらした力が、北部に堆積した地層の隆起を促し、日本はついにひとつの列島につながったのです。
現在、山梨県甲府盆地周辺から南にかけて、櫛形山地、御坂山地、丹沢山地といった山々が並んでいますが、実はこれらはこの衝突によって形成されていった山々なのです。そして約100万年前の衝突では、ついに本州に伊豆半島がくっつきました。実際、伊豆半島では少し特殊な状態が見られます。駿河湾海底でフィリピン海プレートがユーラシアプレートに沈み込む駿河トラフ、相模湾海底でフィリピン海プレートがオホーツクプレートに沈み込む相模トラフ、これら2つのトラフが伊豆半島をちょうど東西に囲んでいるのです。言い換えると、2つのトラフが「ハ」の字型に列島側へ突き出しているのです。このことはまさに、この地に長い間火山弧が衝突していったために海溝の一部が列島側に凹んだことを示しています。
ここで一度、フィリピン海プレートについて整理しておきましょう。フィリピン海プレートはおよそ4500万年前に赤道付近で生まれ、少しずつ北上していきました。そして日本海が完成していった1500万年前頃に、フィリピン海プレートも西日本の南まで到達し、沈み込みを始めました。実はこの2つの出来事がタイミングを同じくして起こったのは、偶然ではない可能性があります。というのも、太平洋プレートの沈み込みに伴う太陸プレート東端の引き伸ばしが、フィリピン海プレートにも影響を与えたと考えられているからです。
それ以前のフィリピン海プレートは南中国の沖合に位置し、大陸プレートには沈み込んではいませんでした。当時のフィリピン海プレートはプレートとしてまだ若く、熱が冷めていなかったために密度が小さく軽かったのです。ところが太陸プレートが東に引き伸ばされると、それに引っ張られてフィリピン海プレートの東端も大きく移動して、ちょうど日本列島が動いてきたのと同時にそのすぐ南へと移動してきました。おまけに、大陸プレートは東へずれた勢いのままにフィリピン海プレートへと乗り上げる、逆に言うとフィリピン海プレートが大陸プレートの下に沈み込むという事態が起こりました。このようにフィリピン海プレートは、太平洋プレートと大陸プレートの動きに巻き込まれる形で西日本へ沈み込むようになったのです。
さて、その後フィリピン海プレートは先述のように伊豆諸島の連続衝突を引き起こしました。またそれだけでなく、北上の際に引き伸ばされたことによる温度の上昇で地下でのマグマの生成が活発化し、およそ1000万年前まで西日本に多数のカルデラ噴火を引き起こし、西日本の現在につながる地形を形成していきました。そんな頃、太平洋プレートはというと、こちらも同じように多数の火山活動によって東日本の陸域を増やしていていました。ところが、この当時の東日本はまだほとんどが浅い海に沈んでおり、辛うじて海上に顔を出していたのは北上山地や阿武隈高地といった太平洋側の地域でした。日本列島の形成を辿る最後のドラマは、海に眠る東日本を隆起させた現象です。
今から300万年前、フィリピン海プレートの方向転換が起こります。フィリピン海プレートはこれまでほぼ北向きに沈み込んでいました。ところが、大陸の下には日本海溝から沈み込んでくる太平洋プレートの巨大なスラブもありました。大陸の下でスラブ同士の衝突が起こっていたのです。その衝突に負けたのがフィリピン海プレートでした。フィリピン海プレートは次第に行き場をなくし、北西へと若干の方向転換を余儀なくされたのです。
この方向転換に伴い、伊豆―小笠原海溝の位置も西に移動し、これまた引っ張られるようにして日本海溝も西にずれこむことになりました。このように、フィリピン海プレートが太平洋プレートを道連れにして西へずれたことで、結果的に東日本には大きな圧縮する力が加わりました。これが「東西圧縮」です。実は、日本海の形成時に地殻が引き伸ばされたことが原因で、東日本には多くの断層ができていました。それがこの東西圧縮のときには反対に圧縮の力を受けとる脆弱な断層として活動したのです。各地で大きな地震を引き起こしながら、地盤は2000mにもわたって隆起し、ついに海面から顔を出すと起伏の激しい現在の地形を築き上げていきました。このときの圧縮はフォッサマグナのさらなる隆起にも影響を及ぼしていると考えられ、東西圧縮はまさに日本を日本たらしめた最後の一撃の如く働いたのです。
以上が日本列島誕生の歴史です。大陸の縁で成長した付加体が、日本海を築きながら大陸と分離し、溝を埋める火山弧の衝突や東西圧縮を経ることで日本列島として生まれ変わりました。こうしてみると、プレート運動の激しいこの場所に海と山に囲まれた自然豊かな国が生まれたのも偶然ではなかったのだと思えてきます。日本の成り立ちは、単なる大昔の話にとどまるのではなく、現在の日本を知ることにもつながっていくのですね。
ただ、今回紹介した説はいまだ議論がなされている数々の説のうちから、広く受け入れられているものを選択してみてきたに過ぎません。特に中央構造線や日本海の形成などについては、まだまだわかっていないことが多く、様々な仮説が交錯しています。今後の研究次第では全く異なった見解が提唱される可能性も高いです。この記事はあくまで始まりとして、今後の最新の地学研究、さらには今回扱わなかった岩石や地質体について、皆さんの興味のきっかけとなれば嬉しいです。
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家庭教師ライターK
家庭教師ファーストの登録家庭教師。青山学院大学教育人間科学部卒。小学校での特別学級介添員やスクールカウンセラー支援員も経験。