
家庭教師ファースト教育コラムその他の雑学
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夏目漱石といえば太宰治、芥川龍之介と並ぶ日本の代表的な小説家です。以前は千円札の肖像画になっていたこともあり、実績、知名度は折り紙付きですね。しかし、夏目漱石がどんな人物だったのかというと、意外と詳しく知らない人も多いのではないでしょうか。
そこで、今回は夏目漱石の人生を振り返りながら、彼の人物像を探っていこうと思います。夏目漱石が実際に体験した出来事は実は彼の作品にも大きく反映されているので、夏目漱石の作品を読むうえでも、とても役立つこと間違いなしです。
なお、勉強の事で困ったことがあった際には、是非私たち家庭教師にもご相談ください!
夏目漱石が生まれたのは1863年、元号でいうと、慶応3年です。こうしてみると意外かもしれませんが、夏目漱石はぎりぎりで江戸時代生まれということになります。令和の今から考えると、とても古い人だとわかりますね。ちなみに夏目漱石の本当の名前は漱石ではなく金之助。漱石はペンネームです。
夏目漱石は武士の家庭の末っ子として生まれ、4人のお兄さんと3人のお姉さんがいました。生まれてすぐに養子に出され、一度は実家に戻ってくるものの、すぐにもう一度別の家庭に養子に出されてしまいます。実の親ではないものの、新しい家庭で夏目漱石は愛されて育ちます。しかし、その養父母の仲は次第に悪くなり、別居状態、ついには離婚してしまいます。このため夏目漱石は実家に戻ってきます。
しかし、実家に戻っても、夏目漱石が戸籍を元に戻すのは大人になるまで許されませんでした。さらに夏目漱石が14歳の時、なんと実の母親が死んでしまいます。こうした出来事が重なり、実は夏目漱石は孤独な少年時代を過ごしていたのです。
夏目漱石は14歳の時、東京府立第一中学校(現在の日比谷高校)から漢学塾の二松学舎に転校します。この学び舎で夏目漱石はのちの作家となるうえで必要な価値観の基礎を身に着けたのです。
そして23歳の時に帝国大学(現在の東京大学)の英文科に入学。大学時代は成績が良く、特待生でした。ここまでの経歴からわかるように、夏目漱石は非常に頭がいい人物だったのですね。また、夏目漱石は22歳の時に明治時代を代表する詩人の一人である正岡子規と出会い、親交を深めるようになります。
26歳になり、夏目漱石は大学院に通いながら、東京で学校の先生をするようになります。そして28歳の時に夏目漱石は東京から遠く離れた四国の愛媛県の松山という場所で教師をすることを決意します。実際にはこの松山には1年しかいなかったのですが、この時に、学生の時から知り合っていた正岡子規と再び親交を深めたのでした。
29歳の時に結婚した夏目漱石ですが、なんと33歳の時にイギリスに留学することになります。理由は英文学を学ぶため、そしてその知識を教える技術を学ぶためです。この留学には日本政府からのサポートがありました。
国からの支援があったとはいえ、夏目漱石の留学費用は多くなく、ぜいたくはできません。しかし、その費用のうち大半を夏目漱石は本を買うことに使ったのです。そして自分の部屋にこもった夏目漱石はじっくり勉強に励んだといわれています。学生時代から優等生だった夏目漱石はイギリスでも一生懸命頑張っていたのですね。
そんな夏目漱石ですが、留学中はものすごく苦労したことが知られています。「なんで自分は英文学を勉強しているのか」、「なんでヨーロッパと日本でこんなにも文明に差があるのか」とずっと悩んでいたのです。この夏目漱石のノイローゼ気味な調子はイギリスから海を越えて日本にまでうわさが届いていたといいます。何はともあれ、夏目漱石はこうして3年間のイギリス留学を終えました。
イギリス留学を終えた夏目漱石は自身も昔に学んでいた帝国大学で今度は大学の先生としてイギリスの文学論を教えるようになります。しかし、実は夏目漱石の先生としての評判はあまりよくはありませんでした。
さらに、このころ、夏目漱石は自分の妻と子供との間ですれ違いもあり、夫婦で別居生活をするくらいまで仲が悪くなっていました。このように苦しい生活の中で、1905年に夏目漱石が書き上げた作品が『吾輩が猫である』です。
「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」という書き出しから始まる有名なこの作品は当時の文芸雑誌「ホトトギス」に掲載されたものでした。『吾輩は猫である』、皆さんも一度は名前を聞いたことがあるのではないでしょうか。この夏目漱石の代表作は苦悩に満ちた夏目漱石の気持ちから生まれた彼自身のデビュー作だったのです。この作品はとても好評で、それ以降、夏目漱石は作家としてたくさんの作品を残すことになります。
『吾輩は猫である』の次に夏目漱石は短編『倫敦塔』、『幻影の盾』、『野分』を発表します。
その頃の文学界では自然主義という考え方が流行っていました。自然主義とはもともとはフランスで始まった考え方ですが、日本では、物事を大げさに表現したり、オーバーな言い方をするのではなく、現実そのものを自然な感じで、あるがままに表現しようとする考え方として認識されていました。
しかし、夏目漱石はこの考え方に反対して、自分独自の考え方で、小説を書いていきます。夏目漱石は、人生には苦しいこともあるけれど、その苦しい部分に目を向けるのではなく、人生を余裕をもって眺めてみようという考え方をしたのです。
そんな夏目漱石がこの時期に書いた作品が『坊ちゃん』です。作品のタイトルは知っているという人もいるかもしれません。この作品もまた夏目漱石の代表作の一つだからです。『坊ちゃん』は今説明した夏目漱石の考え方によって執筆されました。
だから、読んでみると、実は文章は庶民的な笑いにあふれ、コメディタッチで描かれている作品であることがわかるのです。この時期の夏目漱石はこうした余裕を持った考え方をしているため、「余裕派」と呼ばれるようになりました。
『吾輩は猫である』や『坊ちゃん』などの有名な作品をすでに書いていた夏目漱石ですが、まだ職業として教師は続けていました。ところが夏目漱石は次第に小説を書くことへの興味が大きくなっていきます。
そして1907年、夏目漱石が40歳の時に、東大で教授として働く話を断り、朝日新聞社に入社して、新聞に自分の小説を連載することを選びます。皆さんご存じでしょうか。今の時代でも新聞をめくってみると、毎日少しずつ小説が連載されていますよね。夏目漱石はこのスタイルで朝日新聞から自分の小説を発表したのです。
夏目漱石が朝日新聞に入ってから初めて連載した作品が「悲劇の哲学」を描いた『虞美人草』です。『虞美人草』の後、立て続けに作品を書き上げた夏目漱石は前期三部作といわれる『三四郎』、『それから』そして『門』を発表し、作家としての存在感を強めていくのでした。
作家として目まぐるしい活躍を遂げる夏目漱石ですが、自身の体はもともとあまり丈夫な方ではありませんでした。1910年、夏目漱石が43歳の時、なんと夏目漱石は胃潰瘍という病気で入院してしまいます。
当時は明治時代で今ほど医療が発達していませんから、劇的な効果をもたらす強い薬があるわけではありませんでした。ではどう治療するのかというと、当時は体を元気にするために住んでいるところを離れて、空気のきれいな自然の多いところに行くのです。そしてそこの宿にしばらく泊まり、温泉などに入って療養するのが一般的でした。
胃潰瘍で入院した夏目漱石も当時の例にならい、東京を離れ伊豆の修善寺で体を休めていました。しかし、なんとそこで夏目漱石は体調が急激に悪くなり、修善寺温泉で800gもの大吐血をしてしまいます。伊豆という地で夏目漱石は生きるか死ぬかという瀬戸際に立っていたのです。
このときの事情は1910年に書かれた夏目漱石の随筆『思ひ出す事など』に詳しく記載されています。とにかく生と死の間をさまよった夏目漱石ですが、周囲の看病のおかげもあり、何とか一命をとり留めました。この経験を機に夏目漱石は人間の生と死について改めて深く考えるようになりました。
先ほど説明した修善寺の大患の経験から夏目漱石は「生きる意味とは何か」と思い悩むようになります。また、「人間とは何なのか」とも自問自答するようになりました。この時の夏目漱石は孤独感を感じ、人間の存在について疑い続けていたのです。
そんな孤独な気持ちを主人公に重ね合わせて夏目漱石が書きあげた作品が『こころ』。『こころ』は夏目漱石の一番の代表作であり、傑作です。今では高校の国語の教科書にも取り上げられている作品になっていますね。
そんな『こころ』には夏目漱石が追及したエゴイズムという考え方が表現されています。エゴイズムとは人間の心の奥深く、自分の意識の中にある隠れた執着心のことです。簡単に分かりやすく言うと、無意識のうちにどうしても思ってしまうわがままな気持ちということです。このエゴイズムのもつ罪を追求した作品が『こころ』なのです。
夏目漱石は年を取るごとに体が弱っていき、様々な病気に苦しむようになります。そんな中、夏目漱石が48歳の時に、自分の経験を生かして、仲の悪い夫婦間の対立を書いた『道草』という作品を発表します。
そして次に『明暗』という作品を書こうと夏目漱石は考えていました。しかし持病の胃潰瘍がどんどん悪化し、この『明暗』という作品は話の最後まで書き終わることができずに1916年、49歳の時に夏目漱石は亡くなってしまいました。若くして亡くなってしまったものの、夏目漱石は生涯を通してたくさんの作品を書き続けたのです。
夏目漱石の生涯を順に追って説明してきました。おかげでみなさんも夏目漱石の人物像がつかめたのではないでしょうか?今度は夏目漱石の残した作品について解説していきたいと思います。ご存じの通り、夏目漱石の発表した作品はたくさんあり、全部を紹介することはできません。そこで今回は教科書にも取り上げられている『坊ちゃん』、『吾輩は猫である』そして『こころ』の3つの作品に絞って解説していきたいと思います。
『坊ちゃん』は中学一年生の教科書に一部が取り上げられている作品です。1906年、夏目漱石が39歳の時に書きあげられた中編小説となっています。
まずメインの登場人物を紹介します。
坊ちゃん
この作品の主人公です。作品のタイトルにもなっていますね。本名は小説の中では明かされていません。自分のことは「おれ」と言い、また、会話では「わたし」、「ぼく」とも言っています。自分の思ったことを深く考えずに、すぐ行動する性格の人物です。彼が新任教師として四国の中学校に赴任することで物語が始まります。そして、様々な癖のある先生たち、生徒たちと出会い、いたずらをされたり、悪口を言われたりと、ハプニングに見舞われます。
赤シャツ
坊ちゃんがやってきた中学校の教頭先生のことです。いつも赤いシャツを着ているから坊ちゃんが赤シャツと呼んでいます。性格が悪く、坊ちゃんと敵対します。
野だいこ
坊ちゃんがやってきた中学校の美術の先生です。野だいこは坊ちゃんがつけたあだ名です。赤シャツの仲間で、赤シャツと一緒に坊ちゃんに嫌がらせをします。
山嵐
坊ちゃんがやってきた中学校の数学の先生です。山嵐は坊ちゃんのつけたあだ名です。最初は坊ちゃんとけんかしますが、仲直りして、坊ちゃんと一緒に赤シャツと野だいこを懲らしめます。
うらなり
坊ちゃんがやってきた中学校の英語教師です。マドンナと呼ばれる女性の婚約者でしたが、赤シャツの企てにより、うらなりは遠くに転勤になり、マドンナとは破談します。
坊ちゃんは考えなしに行動するタイプの人間で、家族からは少し煙たがられていました。東京の学校を卒業した後、先生として四国の学校に赴任することになります。
先生としては初めての学校で坊ちゃんは赤シャツ、野だいこ、山嵐、うらなりといった個性あふれる先生たちと出会うのです。坊ちゃんの先生としての生活は大変で、生徒達にからかわれたり、いたずらをされたりしてしまいます。頭にきた坊ちゃんは生徒に厳しい罰を与えるように先生たちにお願いしますが、トラブルに巻き込まれるのが嫌な赤シャツを含めた先生たちはむしろ坊ちゃんに責任があるといって、話を聞いてあげません。この時に坊ちゃんの味方をしてくれた唯一の人物が数学教師の山嵐でした。
坊ちゃんと山嵐ははじめけんかをしていたのですが、これを機に仲直りして、一緒に赤シャツと野だいこを懲らしめようと計画を立てます。実は英語教師のうらなりにはマドンナという婚約者がいたのですが、マドンナが好きな赤シャツに邪魔をされてしまいます。うらなりは転勤となり、マドンナと赤シャツが付き合うことになったのです。これを聞いて怒った坊ちゃんは山嵐と団結して赤シャツ(ついでに野だいこ)をやっつけようとしたのでした。
無事赤シャツと野だいこを懲らしめた坊ちゃんは先生の仕事をやめて東京に戻り、給料は低くはなったものの、鉄道会社で働くことに決めたのです。こうして物語は終わります。
坊ちゃんは「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている。」という一文から始まりますが、この坊ちゃんの損をしてしまう性格は物語が終わるまで続いています。なぜなら最初は学校の先生として月給40円(明治時代当時の価格)で働いていたのですが、嫌いな赤シャツ先生を懲らしめた後は月給25円の鉄道会社で働くことになるからです。給料が半分近く下がってしまったのだからこれは損ですよね。
しかし、なぜ坊ちゃんが先生をやめることになるとわかっていても(損をするとわかっていても)赤シャツを懲らしめたのでしょうか。それは坊ちゃんが他人を気の毒に思う気持ちや、自分の正義感に素直に従ったからです。損をすることになっても行動する。このストーリーからもわかるように『坊ちゃん』の中で夏目漱石は人間の善良さや純粋な感情を美しいものとして描いたのです。また、この作品は夏目漱石自身が教師をしていた経験が元になっているともいわれています。
『吾輩は猫である』は1905年、夏目漱石が38歳の時に発表された長編小説です。雑誌「ホトトギス」に連載されました。
『吾輩は猫である』は中学三年生の国語の教科書の中で本文自体は記載されていませんが、読書案内として、おすすめされている本のうちの一つです。入試にもたびたび出題される作品なので、知っておくと、役に立つ日が来るかもしれません。また、話としても普通に面白いので、この解説を読んで興味を持っていただければと思います。
メインの登場人物を紹介します。
吾輩
タイトルからもわかるように、吾輩は猫です。名前は付けられておらず、自分のことを吾輩と呼んでいます。珍野家に飼われていて、猫独自の視点で、珍野家の騒動を観察していきます。
珍野苦沙弥
ちんのくしゃみ、と読みます。へんてこな名前がついていますが、これは夏目漱石のユーモアセンスによるものです。同様にこの作品の出てくる人物の名前は少しへんてこなものが多いです。中学校で英語教師をしていて、苦沙弥先生と呼ばれています。胃が弱く、性格もあまりよくありません。
迷亭
めいてい、と読みます。苦沙弥先生の友達で、芸術や哲学に詳しい人物です。物語の中で苦沙弥先生たちとよく議論をします。
水島寒月
みずしまかんげつ、と読みます。苦沙弥先生の元教え子で、理学を学んでいます。物語では迷亭、苦沙弥先生と一緒に議論をします。また、苦沙弥先生の近所に暮らすお嬢さんに一目ぼれをします。
越智東風
おちとうふう、と読みます。新体詩人で、哲学に詳しい人物で、寒月の友達です。物語では寒月、迷亭と集まって議論をします。
金田
苦沙弥先生の近所の実業家です。苦沙弥先生とは仲が悪く、苦沙弥先生によく嫌がらせをします。娘の富子に寒月が一目ぼれしますが、富子もまた寒月に一目ぼれします。
『吾輩は猫である』は一冊の中で1話から11話と章ごとに分割された形式になっています。今回は各章でどのような出来事が起こるのかを簡単に書き留めていきます。
1話では猫である吾輩が自分の存在を認識し、自分が猫であること、名前がないことを認めながら、苦沙弥先生の家に住み着くことになります。
2話では苦沙弥先生の家に弟子や友人の寒月、迷亭、東風たちが訪れ、談笑します。吾輩はそれを観察しながら考えを巡らせます。
3話では苦沙弥先生と近所の金田さんのやり取りが描かれます。内容は金田さんの娘である富子と寒月の恋仲についてです。
4話では3話から引き続き、富子と寒月双方がどのように考えているのかを明らかにしようとして中心に話が進みます。
5話では苦沙弥先生の家に泥棒が入るというハプニングが起こります。
6話では寒月、迷亭、東風たちが集まり、それぞれ恋愛とはどういうものか議論をすることになります。
7話では吾輩が人間の生活を観察し真似してみようとして、さらには公衆浴場に寄り道します。
8話では近くの中学校の生徒が苦沙弥先生の家に野球の球を投げ込みます。苦沙弥先生が怒って抗議するお話です。
9話では迷亭の伯父が苦沙弥先生のもとへ訪れます。
10話では苦沙弥先生の生徒が富子にラブレターを送ってしまったことをきっかけに話が進みます。
11話では苦沙弥先生達が集まって夫婦とは、女性とは何かを議論します。議論が終わり、来客がみんな帰った後、残ったビールに興味を示した猫の吾輩はついにビールを飲んでしまいます。すっかり酔いが回ってフラフラな吾輩はそのまま水がめのなかに落っこちて命を落としてしまうのでした。
「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」という冒頭でおなじみのこの作品は発表した当時からとても好評で、これによって夏目漱石は作家として有名になりました。この作品では、人間ではないにもかかわらず、自分のことを吾輩と認識した飼い猫の視点から、愉快なキャラクターである苦沙弥先生たちの日常がユーモアを交えて風刺的に描かれています。
また、この作品の舞台は1905年当時の日本です。当時の日本は日露戦争をきっかけにどんどん近代化を進めている最中でした。夏目漱石はそんな日本の急速な近代化に対する文明批判や社会批判もこの作品に含めています。
『こころ』は高校の教科書に取り上げられているとても優れた中編小説です。『こころ』は1914年、夏目漱石が47歳の時に発表されました。
実は教科書にはストーリーの全部が載っているわけではありません。教科書に全体の文章をはじめから最後まで載せてしまうと少し長くなってしまうので、一部を切り取って出題されているのです。そこで、今回は教科書では省かれてしまっている箇所も合わせて解説していきたいと思います。そうすることで全体の理解がより深まり、もっとストーリーを頭に入れやすくなるので、ぜひ最後まで目を通してみてください。
『こころ』に出てくるメインの人物を紹介します。
私
作品の語り手です。ストーリーの途中までの主人公的役割を担っています。先生と出会うことで物語がスタートします。
先生
東京で奥さんと暮らしています。私と出会い、親交を深めることとなります。物語の後半は先生の目線でストーリーが語られるので、途中からは私に代わって主人公的役割を担っています。
先生の奥さん(お嬢さん)
名前は静。先生の奥さんです。後半はお嬢さんと呼ばれています。
K
Kは仮名です。先生がKという人物を語るときに、本名を伏せているからです。先生とは同じ大学に通っていて友人同士でした。
『こころ』は「先生と私」、「両親と私」そして「先生と遺書」の3つのパートで構成されています。このうち教科書に載っているのは最後の章である「先生と遺書」なのです。なぜこの「先生と遺書」だけが載っているのかというと、この最後の章が『こころ』という作品の中で一番重要な章でかつ、一番面白い章になっているからだと思います。なので、今回は教科書に載っていない前半のパートである「先生と私」、「両親と私」を比較的詳しく説明して、後半のパートである「先生と遺書」は軽く触れるだけにしたいと思います。教科書に載っている部分はとても面白いので、ぜひ自分で読んでみてください。
「先生と私」のあらすじ
話は明治時代が終わろうとしているときの話です。私は夏休みに海水浴に来ていました。そこで同じように海水浴に来ていた先生という人物に初めて出会います。海水浴から帰ってきた後も、私は先生と仲良くなり、先生の家へよく訪れるようになるのです。先生は奥さんと二人きりで静かに暮らしていました。先生は毎月、友人の墓参りに行くのですが、私はそれがなぜなのかわからず、疑問に思うのです。
「両親と私」のあらすじ
私の父親は腎臓病にかかっていました。そして、その病気がひどくなり、私は父親のいる田舎に帰って父親に会いに行きます。私だけでなく、私の親戚もぞくぞくと田舎に集まる中、父親の体調はどんどん悪くなり、生きるか死ぬかというところまで来ていました。そんなときに先生から私宛にとても分厚い手紙が届くのです。私はそれが先生の遺書だと気づきました。つまり先生は自殺をしようと考えていたのです。容態が悪い父親を置いて、私は先生に会いに東京に戻ろうと決意します。
「先生と遺書」
この章では先生の手紙に書かれていることが内容になっているので、主人公的な人物は私ではなく、先生になります。
このパートでは前の二つの章で浮かび上がった謎の真相が明かされます。その二つの謎は、「なぜ先生は友人のお墓参りに毎月必ず行くのか」という謎と「なぜ突然、先生は遺書を書いたのか(つまりなぜ先生は自殺しようと思ったのか)」という謎です。この謎には先生、先生の奥さん、そしてKという人物が深くかかわっています。
Kと私の関係を丁寧に巧みに描くことで、夏目漱石はこの『こころ』という作品を通じて、どうしても人を傷つけてしまう恐ろしいエゴイズムとその罪、そしてその罪の償い方について、とても静かに、けれども迫力をもって書ききったのです。この作品は夏目漱石の作品の中でも一番の代表作として知られています。
夏目漱石は『坊ちゃん』、『吾輩は猫である』、『こころ』のほかにも面白い作品がたくさんあります。実は夏目漱石は恋愛をテーマにした作品もいくつか発表しており、それらは比較的読みやすいのではないでしょうか。せっかくなので、その中でも『三四郎』という作品を紹介したいと思います。
『三四郎』
『三四郎』は1908年、夏目漱石が41歳の時に発表した中編小説です。この作品は小川三四郎という主人公が都会での暮らしをきっかけに様々な人と出会い、恋愛についても考える青春小説です。
とてもお勧めできる作品なのでぜひ読んでみてください。
今回は意外と知られていない夏目漱石の生涯を丁寧に解説しました。加えて、教科書にも出てくる夏目漱石の作品もピックアップして説明しました。これらの作品は夏目漱石の人生経験をモデルにして書かれた作品になってもいるので、この背景がわかれば、より楽しく読むことができると思います。もし興味を持ったなら、ぜひ夏目漱石の作品を手に取って読んでみてください。きっと面白いと感じるはずです。
なお、勉強の事で困ったことがあった際には、是非私たち家庭教師にもご相談ください!
現役北大生ライター K
家庭教師ファーストの登録家庭教師。北海道大学文学部在学。大学では文学作品の研究をしています。