家庭教師ファースト教育コラムその他の雑学

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【志賀直哉】教科書・入試によく出る作家「志賀直哉」とその作品を解説

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  • 現役北大生ライター K

志賀直哉という小説家を知っていますか?

志賀直哉は明治時代に生まれ、大正、昭和の時代まで生涯を通じてたくさんの優れた作品を発表した日本の代表的な小説家です。名前だけを聞いてもあまりピンと来ないかもしれませんが、志賀直哉は後年、「小説の神様」と呼ばれるほど小説家の間からも尊敬されていました。

今回は志賀直哉とはいったいどういう人物だったのかについて焦点を当てて解説するとともに、志賀直哉の代表作もいくつか紹介しようと思います。志賀直哉の作品は教科書や入試にもたびたび取り上げられているので、志賀直哉について理解を深めておくと後々役立つこと間違いなしです。

なお、お勉強の事でお困りの際は、是非私たち家庭教師にもご相談ください!

志賀直哉の人生

志賀直哉の人生

志賀直哉の生い立ち

志賀直哉は1883年、明治16年に宮城県で生まれました。志賀直哉が2歳の時に一家は東京に引っ越します。実は志賀直哉にはお兄さんがいたのですが、志賀直哉の生まれる前の年に亡くなってしまいます。お兄さんが死んでしまったのは母親のせいだと志賀直哉の祖父母は考えました。そのため志賀直哉は祖父母の家で大事に育てられることになったのです。

志賀直哉の倫理観の育成

志賀直哉の倫理観は大切に育ててくれた祖父母の影響を受けて形成されました。倫理観とは簡単に言うと社会が守るべきルールの考え方、価値観のことです。しかし、祖父母だけではなく、ほかの人物からも志賀直哉は影響を受けるようになります。

1900年、志賀直哉が17歳の時、彼は学習院の中等科に通っていました。この時、志賀直哉は時代を代表するキリスト教思想家の内村鑑三と出会うのです。そして志賀直哉は七年間内村鑑三から教えを受けることにしたのでした。

志賀直哉自身はキリスト教徒にはならなかったものの、キリスト教徒の内村鑑三と接することで、潔癖主義、正しいことにあこがれ、不正を行ったり、噓をついたりすることを憎む気持ちが芽生えるようになりました。こうして育まれた自身の善悪の判断の考え方が志賀直哉の作品に表現されることとなるのです。

また、この時に志賀直哉の祖父であった直道が開発にかかわっていた足尾銅山が深刻な鉱毒問題を引き起こしていたことが明らかになります。足尾銅山の鉱毒問題は歴史の授業で学んだという人も多いはずです。足尾銅山は田中正造が社会問題として提起したことで有名ですよね。これを受けて正義感を抱いていた志賀直哉は世間の注目を集めるために足尾銅山に視察に行くことを計画しました。しかし、これは大物の実業家であった志賀直哉の父親、直温(なおはる)に激しく反対されてしまいます。この意見の食い違いをきっかけに志賀直哉は父親と長年にわたって対立することとなるのです。

文学仲間との出会いと「白樺」の誕生

学習院中等科に所属していた志賀直哉ですが、あまり優秀な生徒ではなく、中等科で2回落第してしまいます。そのため1902年、志賀直哉が19歳のころ、彼は二歳年下の生徒と授業を受けることになっていました。その時に、後の文学仲間で小説家となる武者小路実篤と出会い、親交を深めるようになります。そして志賀直哉は武者小路実篤と一緒に高等科へ進級し、将来は作家になろうと決意します。

志賀直哉は1906年、23歳の時、東大の英文学科に入学するのですが、2年後には国文学科に転科して仲間とともに勉強会を開いたり、共同で雑誌を作ったりしていました。そのころ志賀直哉が書き上げた作品が『或る朝』です。この作品は志賀直哉が自分と祖母の関係を描いたものなのですが、この作品は公に発表されることはありませんでした。

そして1910年、27歳の時に志賀直哉は大学を中退するのですが、この年に志賀直哉は友人であった武者小路実篤有島武郎とともに雑誌「白樺」を創刊します。このため彼らはまとめて白樺派と呼ばれるようになったのです。当然、志賀直哉もこの白樺派の一人です。

当時の日本の文学界では自然主義という考え方が流行っていました。自然主義とはもともとはフランスで始まった考え方なのですが、日本では恥ずかしがらずに自分の体験を語って、暗い現実や人間の醜い内面だけをありのままに伝えようとする考え方と認識されています。

しかし、白樺派の彼らはこの自然主義に反対して、理想主義的、人道主義的な立場をとるようになります。どういうことかというと、白樺派は人間の持つ可能性を信じて、自分が納得できるような行動をとることを大事にしようという考え方を持つようになったのです。この人々に希望を与えるような文学は大正時代に主流になっていきます。

小説家の道を歩む志賀直哉

小説家の道を歩む志賀直哉

「白樺」を創刊した志賀直哉は創刊号に短編『網走まで』を発表し、それ以降もすぐれた短編を連続して書き上げて、作家としての地位を築いていきます。1912年には女中という身分の、住み込みで働く女性との恋愛に自分の意志を貫こうとする志賀直哉自身を描いた『大津順吉』を発表したほか、翌年には『正義派』、『清兵衛の瓢箪』などの代表作を世に送り出しました。

志賀直哉の文才はかの有名な夏目漱石にも評価されていました。1913年、夏目漱石は志賀直哉に「朝日新聞」で連載小説を書いてみないかという話を持ち掛けます。これを受けて志賀直哉は『時任謙作』という作品を連載しようと考えたのですが、夏目漱石に期待されているというプレッシャーに負けてしまい、思うように話が書けず、連載を辞退してしまいました。夏目漱石はそんな志賀直哉を許していたのですが、志賀直哉自身は夏目漱石に対する自分の不義理を感じ、夏目漱石が亡くなる1916年まで作品を発表することを遠慮したというエピソードが残っています。

父親との不仲と創作意欲の消失

足尾銅山をめぐっての対立以降、もともと志賀直哉と父親の直温の関係はよくなかったのですが、志賀直哉の大学中退や、『大津順吉』に描かれたように、志賀直哉と女中の恋愛、結婚問題があり、父親との関係は最悪なものになっていました。父親との関係が悪くなると、志賀直哉は家を出て、広島県の尾道で暮らすようになります。

尾道で志賀直哉は自分の境遇を重ね合わせて、父親との対立の中で自分の意志を貫こうとする青年を主人公にした長編小説『時任謙作』を書き始めるのですが、うまくいきません。その後、志賀直哉は引っ越しを繰り返し、彼の創作意欲はどんどん失われていきます。この時期に書かれた短編『宿かりの死』では、どんどん大きくなろうとしたやどかりが疲労と絶望で死んでしまう話が描かれていて、志賀直哉自身の境遇を不幸に感じる気持ちが表現されています。

創作意欲の復活と父親との和解

創作意欲を失っていた志賀直哉ですが、「白樺」の仲間たちとの交友を通じて次第に創作意欲を復活していきます。しかし、東京に戻っている間に、志賀直哉は山手線の電車にはねられてしまいます。その後、けがを治すため療養先として志賀直哉は兵庫県城崎(きのさき)に滞在したのでした。

そこの城崎温泉を訪れていた時、志賀直哉は生き物の死を目撃します。これを機に志賀直哉は生命の本質とは何かを考えさせられることになり、この生と死を自分なりに見つめ直して書き上げた作品が1917年に発表された代表作『城の崎にて』です。また、同年、志賀直哉は素直に人を信じることで悲劇を避けることができた夫婦を描いた作品である『好人物の夫婦』や『赤西蠣太』を発表します。こうした作品からは志賀直哉の調和的な人生観の現れを読み取ることができます。

また、ずっと父親と対立していた志賀直哉ですが、志賀直哉の二女が誕生したことをきっかけに彼は父親と和解することができました。そして志賀直哉は長く続いた父親との仲直りの経験をもとにして1917年に『和解』という作品を書き上げます。
一時期は創作意欲を失ったものの、志賀直哉はこのように復活を遂げ、調和的な世界を描く作品を生み出すことに成功したのです。そしてその後も『小僧の神様』や『焚火』などの作品を発表していきます。

志賀直哉の心境の変化と集大成となる『暗夜行路』

対立していた父親を見返してやろうという競争心が若い志賀直哉にとっては創作エネルギーになっていたのですが、気持ちの変化や父親との和解によって、次第に志賀直哉は調和的な世界を描くようになりました。

そんな志賀直哉は以前未完のままにしていた作品『時任謙作』にフィクションの設定を加えて新たな作品にしようと考えます。そうして生まれた作品が志賀直哉の代表的な長編小説『暗夜行路』です。この作品は志賀直哉の文学を締めくくる作品になりました。
その後も志賀直哉はいくつか作品を発表し、1971年、88歳の時に亡くなってしまいます。生涯を通じて、志賀直哉は小説家としてたくさんのすぐれた作品を生み出し、自身が発表した『小僧の神様』になぞらえて他の小説家たちから「小説の神様」と呼ばれるようになったのです。

教科書、入試に出てくる志賀直哉の作品(あらすじ付き)

教科書、入試に出てくる志賀直哉の作品をあらすじ付きで紹介

志賀直哉の小説家としての道のりを順に追って説明してきました。おかげで志賀直哉についてあまり知らなかったという人も彼の生涯について大まかに理解できたのではないでしょうか。今度は志賀直哉の書いた作品についてあらすじ付きで解説していきたいと思います。志賀直哉はたくさんの作品、特に短編を発表しており、ここでその全部を紹介することはできません。しかし、志賀直哉の作品は教科書や入試でもよく取り上げられるものなので、今回はその中でも特に志賀直哉の代表作として知られる作品をピックアップして紹介します。

『網走まで』

『網走まで』は1910年、志賀直哉が27歳の時、友人とともに立ち上げた雑誌「白樺」の創刊号で発表した短編小説です。志賀直哉が文壇に初めて姿を現した作品として知られています。

話の構成

まず、この話は語り手である「自分」の視点で進んでいき、道中の出来事を「自分」が観察する形で構成されています。

『網走まで』のあらすじ

暑い夏の八月に栃木県の宇都宮に住む友人のところまで行こうと決めた「自分」は上野駅から青森行きの汽車に乗ります。その汽車の中で「自分」は7歳ぐらいの男の子と赤ちゃんを連れた母親と出会うのでした。

その男の子は見た目が悪く、わがままでお母さんの言うことも聞きません。母親は赤ちゃんの世話もしながら、男の子のわがままにも手を焼いていました。「自分」はその様子を見て、上品そうな母親なのに、これまでにとても苦労をしていることを察し、その不幸さに同情します。

「自分」がその母親にどこまで行くのか尋ねると、母親は北海道の網走まで行くことを告げました。その後、汽車が宇都宮の駅につくと「自分」は下車します。その時に「自分」は母親からはがきを2枚ポストに入れてきてほしいと頼まれました。

その仕事を引き受けた「自分」はポストにはがきを入れるのですが、その時、はがきを読んでみたい気がしました。ちょっと迷って「自分」は宛名だけを見ることにします。すると宛名はどちらも東京に向けたもので、一つは男の人の名前、もう一つは女の人の名前でした。

解説

『網走まで』は「自分」というたった一人の視点のみから物語が語られていく形式で、作品全体が簡潔で分かりやすい文章になっています。また、「自分」の視点から周りの人物に対する自分自身の感情が素直に表現されているのが特徴です。そんな「自分」の視点から、出会った母親が上品そうな育ちをしていただろうことや、それが不幸な境遇にいるのだろうことを感じ取ったことが読者に伝えられるのです。

また、タイトルにもなっている網走は北海道の道東にある街のことです。網走は当時、網走監獄という呼ばれた刑務所があったことで有名でした。「自分」の視点からこの母親が不幸な運命を背負っているのだろうと感じるのはこうした歴史的背景を持つ網走に母親が向かっていることも関係しているのだといえます。

『清兵衛と瓢箪』(せいべえとひょうたん)

『清兵衛と瓢箪』は1913年、志賀直哉が30歳の時に発表された短編小説です。

話の構成と備考

主人公は小学生の少年で、名前は清兵衛です。彼は瓢箪づくりに熱中していたのですが、物語を通して周りの大人たちに邪魔されてしまいます。

瓢箪づくりと聞いても具体的にイメージしづらいかもしれません。瓢箪づくりとはもともとはウリ科の植物である瓢(ヒョウ)を加工して飲み物を入れる容器を作ることです。瓢の箪(容器という意味)だから瓢箪なのです。缶やペットボトルが主流となっている今では瓢箪を見かけることは非常に少ないのですが、昔から加工されて使用されていました。

また、作中で出てくるお金の価値も現代価格とは異なっています。

『清兵衛と瓢箪』のあらすじ

12歳の小学生である清兵衛は瓢箪が好きで、瓢箪づくりに熱中していました。ずっと瓢箪のことを考えていた清兵衛は、浜通りを歩いていた時に目に入ったお爺さんのはげ頭を瓢箪だと勘違いしました。それくらい清兵衛は瓢箪に熱中していたのです。

清兵衛のお父さんは大工をしていたのですが、そのお父さんのもとを訪れたお客さんが清兵衛の瓢箪を見て、瓢箪の話をし始めます。清兵衛はその話に反論してしまい、お父さんに叱られてしまいました。

そんな清兵衛ですが、ある日裏通りを歩いていると、とてもいい形の瓢箪を売っている店を見つけます。そして清兵衛はその瓢箪を10銭で買い、大切にします。学校にも持っていき、授業中にもそれを磨いていました。

しかし、それが先生に見つかってしまい、とても怒られてしまいます。学校に持ってきた瓢箪を没収されただけでなく、先生は清兵衛の家にまでやってきて説教をするのでした。それを聞いた清兵衛のお父さんはとても怒りだします。そして清兵衛が今まで手入れしてきた瓢箪たちを金づちで全部叩き合ってしまうのでした。

没収された清兵衛の瓢箪ですが、先生はそれを学校の用務員にタダであげてしまいます。用務員はその瓢箪を骨董屋に持っていき、交渉して50円で売り払いました。用務員は月給4か月分に当たるお金をもらえたことを内緒で喜びました。しかし、実はその瓢箪はその後、骨董屋の手によって600円の価値が付いたのです。もちろんこの一部始終を清兵衛が知ることはありませんでした。

解説

この作品では瓢箪好きの清兵衛と周囲の大人の彼の才能に全く気付かない大人の反応が面白く表現されています。志賀直哉は大人の自分中心の価値観を批判し、子供ののびのびとした個性の尊重を訴えていると読み取ることができるのです。
また、この作品では清兵衛とその父親の対立関係が描かれており、これは志賀直哉自身が長年父親と仲が悪かった体験が投影されていると考えられています。

『城の崎にて』

『城の崎にて』

『城の崎にて』は1917年、志賀直哉が34歳の時に発表された短編小説です。志賀直哉の代表作のうちの一つであり、高校の国語の教科書に教材として取り上げられています。

話の構成、備考

1913年、志賀直哉は東京で電車事故にあい重傷を負ってしまいました。そして兵庫県の城崎温泉で療養をします。『城の崎にて』はその療養先で志賀直哉が体験した出来事と感情を示す作品になっていて、主人公は明記されていませんが、志賀直哉自身です。一人称は「自分」となっています。

主人公が作者自身なので、この『城の崎にて』という作品は代表的な私小説として知られています。私小説(わたくししょうせつ)とは作者自身が体験した出来事を主な題材にして書かれた小説のことです。私小説はその性質上、作者の感じた気持ちがそのまま表現される特徴を持ちます。

『城の崎にて』のあらすじ

東京で山手線にはねられた自分は体を回復させるために城崎に行きます。医者には背中の傷が致命傷になるかもしれないが、その可能性は低いだろうと診断され、とにかく二、三年は用心するように言われます。

本を読んだり、散歩をしたりと一人きりで静かに暮らす自分ですが、ある朝、一匹の蜂が玄関の屋根で死んでいるのを見かけます。仲間の蜂に無視されるその死骸に自分は静かな感じと寂しさを感じました。その夜、雨が降り、死骸は消えていました。

蜂の死骸を見て間もない日に自分は公園へ行くつもりで宿を出ました。すると近くの川で首に串が刺さったネズミが子供たちに石を投げられる中、必死で逃げ回っている様子を目撃します。その時自分は、死ぬ運命を背負いながら全力でもがくネズミの様子を見て、死の直前の抵抗とその苦しみを恐ろしく思いました。

それからしばらくして、自分はある夕方に小川に沿って歩いていました。だんだんと暗くなって道を引き返そうとしたときに、イモリを見つけます。何となく自分は石を投げることでイモリを驚かして水の中に入れてやろうと考えます。当てるつもりはなかったのですが、自分が投げた石はイモリに当たり、イモリは死んでしまいます。その時にイモリの身に起きた偶然の死を自分は感じました。

そして偶然によって支配される死を持つ生き物の寂しさを感じるとともに、生と死は両極端にあるわけではなく、死はもっと身近なものであると自分は悟るのでした。

解説

この作品は志賀直哉が自身の生と死を考えた体験を表現した心境小説として認識されています。心境小説とは簡単に言うと、自身の体験を題材にしつつその時の自分の感情がテーマになっている小説のことです。心境小説の最大の特徴は話の最後には自分の感情が穏やかに感情になっていくという点です。

生と死の瀬戸際を経験した志賀直哉が城崎で蜂、ネズミ、イモリという3つの死を目撃することで、死とは何かを悟るまでの過程と感情が見事な文章によって表現されています。

『暗夜行路』

『暗夜行路』は雑誌「改造」に少しずつ連載された長編小説です。1921年に前編が発表され、完結したのは1937年、志賀直哉が54歳の時でした。『暗夜行路』は志賀直哉の代表作です。

話の構成と備考

『暗夜行路』は志賀直哉が以前執筆を断念した『時任謙作』を基にして、そこに新たなフィクションの要素を加えてボリュームを増した作品になっています。そのため物語は4部構成となっていて、短編小説を多く発表してきた志賀直哉にとっては珍しい長編小説です。

主人公の名前は時任謙作で、彼が人間的に成長していく過程を描いた作品です。

『暗夜行路』のあらすじ

主人公の時任謙作は実は父親が外国に行っている間に、祖父と母親の間に生まれた子供だったのです。しかし、時任謙作はそのことを知らずに育っていました。

彼は幼馴染の愛子に恋心を抱き、結婚を申し込みますがうまくいかず、結婚は拒絶されてしまいます。ショックを受けた時任謙作は広島県の尾道に移ることを決めたのでした。

尾道で時任謙作は兄に手紙を出すのですが、その返答によって、時任謙作は自分の出生の秘密を知ります。当然、彼は非常にショックを受け、苦しみさまよいます。その間、時任謙作は娼婦の乳房を「豊年だ」と感じ、空虚感を満たす貴重なものだと感じるのでした。

時任謙作は京都に住まいを移し、「樹下美人」を思わせる女性、直子と出会います。ようやくショックから立ち直った時任謙作は直子と結婚し、新鮮な結婚生活を送るのでした。しかし、時任謙作が留守の間に直子はいとこに犯されてしまいます。

時任謙作は直子を許そうとするのですが、感情を整理することができません。苦悩から逃れられない時任謙作は鳥取県の大山(だいせん)に登り、一人で大自然の中にこもることにしました。大山の大自然に溶け込んだ時任謙作は精神が穏やかになっていくのを感じ、すべてを許す気持ちになります。直子もそんな時任謙作の「柔らかな、愛情に満ちた眼差」を見てついていこうと決心するのでした。

解説

志賀直哉はこれまでに発表してきた『城の崎にて』や『和解』でみられるように自分の体験を基にした作品を作る私小説的な書き方ですぐれた作品を生み出してきました。しかし、『暗夜行路』は自分の体験を投影した『時任謙作』を土台にしながらも、自分が体験したことのないフィクションのストーリーを大きく組み込んだ点で、以前の作品群とは異なっています。
しかしながら、乱れた精神を統一させよう、自分自身の状況に納得しようと努力していく主人公、時任謙作の成長する過程は志賀直哉自身が追い求めていたものであり、志賀直哉は自分をこの主人公に重ね合わせて書いていることが読み取れます。

その他の志賀直哉の作品のおすすめ

その他の志賀直哉の作品のおすすめ

以上で説明してきた作品は志賀直哉の超が付くほどの代表作であり、知っておいて損することはないと思います。しかし、志賀直哉はこれらの作品に負けず劣らず面白い作品をたくさん発表しています。せっかくなので、今回はその中でもおすすめの短編を二つ紹介します。どちらも短いお話なので、大変読みやすくなっているのが特徴です。

『小僧の神様』

『小僧の神様』は1920年、志賀直哉が37歳の時に発表した作品です。以下が冒頭の簡単なあらすじです。

寿司屋に行ってみたいと思っていた少年、仙吉ですが、お金が足りず寿司を食べられませんでした。それを見かけたある大人が仙吉に寿司をおごることを考えます……。

『小僧の神様』は評判がよく、この作品をもじって志賀直哉は「小説の神様」と呼ばれることになりました。

また、回転寿司店の「小僧寿し」はこの作品から店名が由来しています。

『赤西蠣太』

『赤西蠣太』は1917年、志賀直哉が34歳の時に発表した作品です。この作品は実際にあった江戸時代の出来事、伊達事件をベースにしたお話で、映画化やドラマ化もされています。以下が冒頭の簡単なあらすじです。

主人公の赤西蠣太はたいして取り柄のない仙台藩の武士でしたが、実は親友の銀鮫鱒次郎とともにスパイをしていたのでした。密書が完成したので、屋敷を脱出しようとするのですが、いい方法が思いつきません……。

この作品は江戸時代を舞台にした作品なので、時代劇感覚で読むことができるかもしれません。また恋愛の話も絡んでくるので、読んでみて面白いと感じる人もいるはずです。

上記の二作品はどちらも読みやすいので非常におすすめです。ぜひ読んでみてください。

まとめ

今回は志賀直哉の小説家としての人生と考え方の変化を順を追って丁寧に説明してきました。また、いくつかの志賀直哉の代表作をいくつか絞って解説しました。これらの作品は志賀直哉自身の体験と密接に関係しているので、彼の人生のエピソードを知ることで非常に理解しやすくなると思います。もし、興味を持ったなら、ぜひ志賀直哉の作品を手にとって読んでみてください。きっと面白いと感じるはずです。

なお、お勉強の事でお困りの際は、是非私たち家庭教師にもご相談ください!

この記事を書いたのは

現役北大生ライター K

家庭教師ファーストの登録家庭教師。北海道大学文学部在学。大学では文学作品の研究をしています。

著作・制作

家庭教師ファースト/株式会社エムズグラント

『質の高いサービスを、良心的な価格で』をモットーに、全国で20年以上家庭教師を紹介しています。実際に担当する教師による体験指導受付中。教育に関する相談もお気軽に。

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