
家庭教師ファースト教育コラムその他の雑学
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鎌倉時代前期に鴨長明によって書き上げられた『方丈記』。「無常観」をテーマに書き上げられているが、「無常観」とは何か、また『方丈記』が成立した時代にはどんな背景があったのでしょうか。平安時代とはまた一風変わった鎌倉時代の文化に触れていきましょう!
なお、お勉強の事でお困りの際は、是非私たち家庭教師にもご相談ください!
この記事の目次
『方丈記』は冒頭でも記した鎌倉時代初期、1212年に、当時58歳であった鴨長明によって描かれた随筆です。そして日本三大随筆の『枕草子』『徒然草』に続く随筆の一つとしても有名です。随筆とは、自分の考えや見聞きしたことなどをありのままに書いた文章のことを指します。『方丈記』は、鴨長明の暮らしの中での出来事や考えなどが書かれています。
内容は、仏教の教えである日本人の「無常観」について書かれ、火事や竜巻、地震などの天災や、飢餓などによる厄災による不安な情勢、人間の思い通りにならない人生について、また日野山における方丈庵での質素な生活の様子と心境が、簡素な文章、ひらがなによる和文と、漢文による和漢混交文で表現されています。『方丈記』のなかで重要なキーワードの「無常観」とは、世のすべてのものは常に移り変わり、いつまでも同じものは無いという思想のことです。
また、『方丈記』という題名の由来は、鴨長明が長年居住していた方丈の草庵にちなんでつけられました。
鴨長明は下鴨神社の1155年に正禰宜の次男として生まれ、恵まれた環境で育ったという通説になっています。しかし、18歳の時に、父親が急死してしまい、すでに母親も亡くなっていたので、鴨長明は「みなしご」として生きていきます。「みなしご」とは、孤児と書き、死に別れて親のない幼い子のことを指します。
その後、鴨長明は相続争いで敗れるなど、不運が続きます。かつて妻子がいたようですが、30歳の時離別してから、一人で暮らしてきました。そんな彼にとって、大切だったのは、音楽と和歌でした。若いころから、琵琶を嗜み、和歌を習うなど才能を磨き上げてきました。
そんな彼に思いがけない出来事が起きます。彼は才能があり、和歌を多くの人から評価されてきました。当時の天皇、後鳥羽院にも認められ、和歌所の奇人にも抜擢されました。しかし鴨長明の父の跡を継ぐ機会を親族に邪魔されてしまい、これを機に出家をしました。その後、1216年に亡くなるまで日野山でひっそり生活をおくり、一丈四方、つまり一辺約3メートルの正方形の小屋にも近い庵に暮らし『方丈記』を書き上げたのでした。
末尾では、草庵での暮らしに執着に近い愛着を抱いている今の自分は、仏教的な往生からはほど遠いものではないだろうか、自分の在りかたを問う場面がありますが、鴨長明は『方丈記』の中で、「人生とは何か」「この人生を生きる意味は何か」を自分自身に問いかけると同時に、この『方丈記』を手に取る私たちにも同じ問いを投げかけているのです。
「死」というものが現代のわたしたちにとってあまりそれほど切実でないので、「人生をどう生きるか」という投げかけに深く考える機会は少ないです。私たち人間は、時代の流れや大きな自然の力に翻弄され、どのようにこの世の中に生きた証を残していけばよいかを見つめなおすことが大切だと、『方丈記』では教えてくれます。
鎌倉文化の特色は、第一に文化が庶民性を帯びてきました。これまでは、貴族を中心とした文化が平安時代には盛んになりましたが、鎌倉時代になると、難解な教養を必要としない新仏教の台頭、文字が読めない武士・農民にも親しみやすい語りの文学としての軍記物語の流行、物語を図解した絵巻物の発達で文化の庶民化の好例でした。
武士の精神や中国文化(宋や元)が新しく加わった「質実剛健な文化」へと変化し、彫刻、文学、絵画などが発展していきました。彫刻では、東大寺南大門にある金剛力士像や、仏教だと浄土宗、浄土真宗、また時宗などが盛んになった時期です。
当時、仏教は盛んに信仰され、教えでは釈迦の死後2000年後の1057年ごろから「末法」という時代になるといわれていました。つまり、現代的に表現すると、「世紀末の時代」であり、仏教においては「修行」「悟り」がなくなり、天変地異が連続する時代です。
歴史上でも、保元・平治の乱から源平の合戦がようやく終わった時代であり、火事や竜巻、地震といった天変地異が立て続きに起こっていました。それも、『方丈記』には記されています。当時の平均寿命は29歳だったので、半数以上は成人せずに死んでしまっていました。そのような現状に、鴨長明は出家をして改めて人間の無常観に嘆き、随筆として残しました。
『方丈記』のキーワードとなる無常観とは、仏教の根本思想と言われています。「変わらないように見えても変化しないものなどではなく、すべては常に変化していて、やがて滅んでいく」という思想です。『方丈記』は冒頭から終わりまで、この思想が一貫して表現されています。
出家後、鴨長明の心に残った挫折感と無常観から、自分話すべきことは書くことだけだと、あきらめの境地に達しました。さまざまな災害の経験から、鴨長明は「結局この世には心休まるところはどこのもないのだ」という人生観を持つようになります。
実に重い雰囲気をただ寄せる深い随筆ですね。
「行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。淀みに浮かぶうたかたかは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある、人と栖と、またかくのごとし。
玉敷きの都の内に、棟を並べ、甍を争へる、高き賤しき人の住まひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。
あるいは、去年焼けて、今年作れり。
あるいは、大家滅びて、小家となる。
住む人もこれに同じ。
所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、僅かに一人二人なり。」
訳:川の流れは絶えることなく、また、元の上流に戻ることもない。流れの淀んでいるところに浮かぶ水の泡は、一方で消えたかと思うと、一方ではまたできて、いつまでもそのままの状態で存在していることはない。
このように生まれてきている人と住まいも、また、同じようなものである。
玉を敷きつめたように美しい都の中に、棟を並べ、屋根の高さを競っている(ように並んでいる)身分の高い、また低い人々の住まいは、幾世代を経てもなくならないものであるが、これらの家々が本当に昔のままで残っているのかと調べてみると、昔あったままの家は珍しい。
ある場合は、去年火事で焼けて、今年新しく作っている。
ある場合は、大きな家が滅んで、小さな家となっている。
(家だけでなく、そこに)住んでいる人もこれと同じである。
これは『方丈記』の冒頭部分で、とても有名ですが、鴨長明は琵琶を習っていただけあり、とてもリズムの良い文章です。「万物は常に栄えては滅びていく。また、元の栄華を取り戻すこともできない」と記されており、ここでは、仏教の教えである、諸行無常の考えがあます。
「行く川の流れは絶えずして」とある表現は、人の世のはかなさを嘆いているととらえることが出来ます。この冒頭からは、鴨長明の「心の揺れ」を読み取ることもできます。鴨長明は、自分の心を苦しめる無常から解放を願い、隠居する選択をしました。方丈の狭い小さな庵での生活の中で、いったんは安らぎを得ますが、俗世間と離れた現在の生活を次第に楽しく感じ、楽になった姿を実際に『方丈記』では描かれています。
『方丈記』には、鴨長明の人生訓も記されており、質素な暮らしと健康法について語っています。
いかにいはむや、常に歩き、常に働くは、養性なるべし。
なんぞいたづらに休みをらん。人を悩ます罪業なり。いかゞ他の力を借るべき。
衣食のたぐひ、またおなじ。
また藤の衣、麻のふすま、得るにしたがひて肌を隠し、野辺のおはぎ、峰の木の実、わづかに命をつぐばかりなり。人にまじらはざれば、姿を恥づる悔いもなし。
現代誤訳:体を動かし、歩く事は健康的である。
静かに休んでいるのは不健康だ。
着るものなどは手に入るなりに適当にすればいいのだし、食べるものも手に入ったなりに食べていけばいい。
粗衣粗食の生活は一見みすぼらしいが、町中で人に会う訳でもないので、恥ずかしい事もない。
この時代には、現代のように便利なものはありません。自分で食材を調達したり、管理しなければならないので、出家しひっそりと狭い空間で生活してきた鴨長明は、たくましい人なのです。
そのような日常で、鴨長明は「出世すると貪欲になる」「財があれば心配になる」「貧しければ恨みっぽくなる」などの教訓を得るのです。現代の私たちの生活にもあてはまる言葉ばっかりですね。
本作品は、鎌倉時代に鴨長明によって書かれた歌論書です。約80段から構成され、鴨長明が何歳の時に書いたのかはわかっていませんが、1211年~1216年の間に成立したのではないか、と言われています。
『無名抄』は、「おもて歌のこと」「深草の里」「俊生自賛歌のこと」と構成内容になっています。特徴としては、和歌・歌人・歌の心得などについて記され、最初の「おもて歌のこと」では鴨長明とその師匠である俊恵が会話する場面から始まり、前半と後半の、二段落に分けられます。前半では、俊恵が俊成のもとを訪れた時のやりとりが回想され、誰が何を話しているのかわかりにくいので、敬語や会話内容から理解しなければなりません。
後半は、この改装を踏まえて俊恵がどう思っているのか、鴨長明に述べている場面になっています。
実際に読んでいくと、
俊恵しゅんゑ曰はく、「五条三位さんみの入道のみもとにまうでたりしついでに、『御詠ごえいの中には、いづれをか優れたりと思ほす。人は、よそにて様々に定め侍れど、それをば用ゐ侍るべからず。まさしく承らん。』と聞こえしかば、
「夕されば野辺の秋風身に染みて鶉鳴くなり深ふか草くさの里
これをなん、身にとりておもて歌と思ひ給ふる。』と言はれしを、俊恵また曰はく、『世にあまねく人の申し侍るには、
面影おもかげに花の姿を先立てて幾重いくへ超え来ぬ峰の白雲」
現代語訳:わたくし鴨長明の和歌の師である)俊恵が(わたくしに)いうことには、「五条三位入道(=藤原俊成)のお屋敷に参上したときに、(私が俊成に)『あなたの歌の中では、どの歌を優れているとお思いですか。ほかの人はさまざまに評定していますが、その意見を用いるべきではございません。まさに今お聞かせ願いたいと思う。』と申し上げたところ、
夕方になると野辺の秋風が身に染みて、鶉が鳴いているようだ(鳴いているのが聞こえる)この深草(京都市伏見区の地名)の里では。
これを私の代表歌と思っております。」と(俊成が)言いなさったのを、わたくし俊恵が、また言ったことは、『世の中の広くの人々が申しますは、
白雲に花の姿を想い馳せて、後を追い、幾重もの峰を越えて来た。
夕されば野辺の秋風身に染みて鶉鳴くなり深ふか草くさの里
この歌は、俊成が思う、自身の代表歌になっています。また伊勢物語の123段を踏まえた歌です。
鎌倉前期の説話集。編集は鴨長明で、晩年の作品です。8巻102話からなるが、第7・8巻は別人の手になる後補だといわれています。内容は、わざと破戒行為を標榜する偽悪の伝統や数寄とブドウとに揺れる心を描いた話など、人間の内面に踏み込んだ説話が多いです。
「発心」とは、菩提心 (悟りを求める心)を起こすことで、序に、自分の心のはかなく愚かなこと反省し「心の師とは成るとも心の師とすることなかれ」という仏の教えのままに心を制御するならば、迷いの世界の生死を離れて早く浄土に生まれる,と説かれ,愚かな心を導くために深妙な法ではなく身近な見聞を集め記した,と述べられています。
それでは、冒頭部分だけ実際に読み解いていきましょう。
山に叡実阿闍梨といひて、貴き人ありけり。
帝の御悩み重くおはしましけるころ、召しければ、たびたび辞し申しけれど、
重ねたる仰せ否びがたくて、なまじひにまかりける道に、あやしげなる病人の、
足手もかなはずして、ある所の築地のつらに平がり臥せるありけり。
現代語訳:山に叡実阿闍梨といって、尊い人がいました。
帝のご病気が重くていらっしゃったころに、(帝が阿闍梨を宮廷に)召されたのですが、(阿闍梨は)何度も辞退申し上げたのですが、
度重なるご命令を断ることができなくて、しぶしぶ参上する道中に、みすぼらしい病人で、足も手も思うようにならない状態で、とある場所の築地のそばに平べったくなって伏せている人がいました。
鴨長明がこの作品を残し、亡くなった後、慶政による「閑居友」に大きな影響を与えました。
正式名称は賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)。この下鴨神社、とても歴史が古く紀元前90年に神社の瑞垣の修造が行われたという記録があり、それよりも前からあったという説があります。 その後は奈良時代から朝廷から崇敬を受け、源氏物語や枕草子の舞台としても登場しています。
鴨長明はここ1155年(久寿2年)、賀茂御祖神社(下鴨神社)の禰宜だった鴨長継の次男として誕生しました。その後、出家をした鴨長明は、何かの折に初めて下鴨神社を訪れる機会があり、下鴨神社本殿東に鎮座する御手洗社(井上社)前の池に湧き出る清泉の水で手を洗った時に、そっと御手洗の神に「私が誰だかおわかりでしょうか?」と問いかけていた記載があります。
その後、鴨長明は1216年にこの世を去りますが没した場所や死因といったものは伝えられていないので、栖として考案した組立・解体式の方丈でひっそりと息を引き取ったのかもしれません。
質素な暮らしを堪能し、必要最低限の物しか持たずに暮らした鴨長明は、一見孤独で寂しいように見えますが、どう感じたでしょうか。
鴨長明は、『方丈記』を執筆した4年後、62歳で亡くなります。激動の時代を生きながらも、鴨長明は、現代に残る多くの言葉を残したのです。
現役上智大生ライターS
家庭教師ファーストの登録家庭教師。上智大学 法学部在籍。家庭教師だけでなく塾講師の経験もあります。