家庭教師ファースト教育コラム音楽・楽器

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【音楽の習い事】子供に音楽を学ばせる「意義」と「メリット」とは?

  • 音楽・楽器
  • 2022.04.20
  • 現役音大生ライターM

私たちの生活には音楽が溢れています。
近年は音楽配信サービスが非常に充実していることもあり、スマートフォンなどで日常的に音楽を聴いている方も多くいらっしゃることでしょう。
しかし音楽が日常生活に欠かせないものとなりつつある一方で、「音楽教育」の重要性が深く言及されるされることはあまりないように感じられます。
私は「学ぶ」ことから得られるものもたくさんあるように思うのです。
 
そのため今回は「子供に音楽を学ばせる意義とメリット」について、今一度考え直してみようと思います。
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古代ギリシアの偉人に学ぶ音楽の力

古代ギリシアの偉人に学ぶ音楽の力


音楽の歴史は非常に古いもので、その歴史は有史以前に遡ります。
古代ギリシアの時代にはすでに音楽理論の基礎といえるものが出来上がっており、この頃から学者たちは音楽に関する様々な記述を残しています。
まずは、大昔に生きた偉人たちが音楽をどのようなものと捉えていたのかを見ていきましょう。
 

ピタゴラスが説く「宇宙と音楽の調和の神秘」

ピタゴラス。
そう、あの「ピタゴラスの定理」を発見した人です。
なんと彼は哲学者であり偉大な数学者でありながら、音楽に関してもある優れた発見をしているのです。
 
その発見とは「音階の主要な音程に対応する数比」についての発見です。
といってもピンときませんね。
例えば、弦をどこも押さえずに弾く(開放弦と言います)とドの音が鳴る一本の弦があるとします。
この弦のちょうど真ん中を指で押さえてもう一度弦を弾くと、開放弦を鳴らしたときよりちょうど1オクターブ高いドの音が鳴ります。
また、この弦の3分の2にあたる場所を押さえて弦を鳴らすと、今度は開放弦のドの音より完全5度高いソの音が鳴ります。
 
つまりピタゴラスは、「音程を変えるには、オクターブは2:1、完全5度は3:2、のように弦の長さを数比に従って変えてやれば良いんだ」
と言うことを発見したのです。
(この規則に基づいた音律を「ピタゴラス音律」と言います。)
 
また彼は、音階の主要な音程は非常に簡単な整数の比で表されることにも気づきました。
美しい音のハーモニーは、美しい整数の比で表せるのです。
こうして万物に美しい数が隠れていることに気づいた彼は、最終的に「宇宙の調和」も音楽の調和と同じ方法で説明できるのでは、と考えました。
これが「天球の音楽」の理論です。
さすがに少々飛躍しすぎにも思えますが、ともかく彼は、音楽の持つ美しい調和に神秘性を見出したのです。
 
彼のこうした「音楽には論理と神秘が備わっている」という考えは、次に紹介するプラトンの音楽観にも大きな影響を与えています
 

プラトンが説く「徳育としての音楽」

プラトンも、言わずと知れた古代ギリシアの偉大な哲学者です。
そんな彼は、著書『国家』の中で音楽教育の重要性を主張しています。
では、彼はどのようなことを主張したのでしょうか。
 
彼の提唱した考えは「エートス論」と呼ばれます。
「エートス」とは、音楽との関連では「品性」の意味を持ち、音楽が人間の中に吹き込むと思われる道徳的性格を表します。
要するに彼は、「音楽を学ぶことで子供たちは品性(道徳的精神や自制心)を学ぶことができる」ということを言っているのです。
そしてさらには、「正しい音楽教育はやがて立派な統治者を生み、健全な国家を再構築することができる」とまで言っているのです。
 
しかしその一方で彼は、「快楽や癒しのための音楽」については随分と否定的な立場を取ります。
そういった音楽にばかり触れていると、何か別の新しい音楽を聴いたとき「(自分にとって)快か不快か」という視点でしかその音楽を評価できなくなってしまうのではないか、というようなことを危惧していたのです。
そして、このように「快・不快」という評価の尺度しか持たない子供は、あらゆるものをそのように評価してしまうことで、将来的に品性や道徳的精神が欠落した大人になってしまうのではないかと考えたのです。
 
こうした彼の考えからは、音楽の中には「人間の心の中に入り込んでくるような不思議な魔力」があるということをはっきりと認識していたことが伺えます。
そしてその不思議な魔力は、人々に良い影響も悪い影響も与えうる。だからこそ、彼は『国家』のなかで「優れた音楽教育=徳育としての音楽」の重要性を説いたのです。
 

アリストテレスが説く「音楽の実践」の必要性

アリストテレスが説く「音楽の実践」の必要性


最後に紹介するのは、しばしば西洋最大の哲学者の一人とも言われる「万学の祖」、アリストテレスによる音楽教育論です。
彼は著書『政治学』の7巻後半から8巻にかけて、パイデイア思想(教養・教育に関する思想)について触れており、その中には音楽教育に関する言及も含まれています。
彼はプラトンと同様「エートス論」に肯定的な立場を取りつつ、そこからさらに踏み込んで具体的・実践的な教育内容にも言及しています。
それでは、彼の考える音楽教育の意義についてみていきましょう。
 
まず彼は音楽が何の目的のために用いられるかという問題に関して、第5章で以下の3つを挙げます。
(1)遊戯や休養のため
(2)教育のため
(3)ディアゴーゲー(閑暇 diagoge)や知的教養のため
(木間英子『日本における音楽教育理論の美学的基盤の研究—情操教育としての音楽教育再考』36p.より引用)
 
彼は、「子供の音楽教育においては(2)の効用が最も重視される」と主張します。
適切な音楽教育が子供の徳の修養を実現すると考えたからです。
ここまでは、プラトンの説いた「エートス論」とほぼ同じ内容ですね。
しかし彼はここから、もう一歩先に進んだ問題提起をします。
 
それは、「楽器を演奏する訓練は必要か?」という実践的な問題です。
ここまで「エートス論」をみてきたように、音楽教育の目的が「徳育」であり品性を学ぶためのものであるとするのならば、
実際の音楽教育の現場では「子供に良い音楽を聴かせる」ことによってその目的は達成できるはずです。
そのため、子供に楽器を演奏する訓練をさせる必要はないのでは?という疑問が生まれるのです。
 
しかしアリストテレスはその疑問に対して、
「楽器の演奏は学ばせるべきである」という判断を下します。
その一番の理由について彼は「実際に演奏するという体験をしなければ、音楽に対する優れた批判者になるのは不可能、もしくは困難だから」
であると説くのです。
確かに、一度も演奏したことのない楽器の演奏を聴いても、その演奏がどのくらい優れていてどの程度の技術を要するかを想像するのは容易ではありません。
そういった音楽は、想像か「快・不快」の尺度でしか評価できないのです。
だから少なくとも「楽器に触れる」という経験をすることは、適切に音楽を評価し、楽しむ上で必要となるのです。
 
このように彼は「演奏を学ぶ必要性」を主張するのですが、ここで彼はさらにもう一つの重要な考えを付け加えます。
それは、「演奏の訓練は、決して専門教育のようであってはならない」というものです。
つまり、子供に対する楽器演奏の教育はプロの演奏者を養成するためのものではない、ということを強調したのです。
そして彼は、音楽教育が専門教育にならないために以下の制限を設けました。
 
(1)その業に関与せねばならない程度
(2)用いるべきメロスおよびリュトモスの種類
(3)学修せねばならない楽器の種類
(同前39p.より引用)

この説明だけではあまりよく分かりませんね。
これは簡単に言うと、
 
(1)単純な楽しみとしての音楽だけでなく、最低限メロディやリズムの構造について理解できるようになる程度の教育を目指すこと
(2)教育上適切なメロディ・旋法・リズムのみ扱い、扇情的なものなどは扱わないこと
(3)習得が難しい楽器や宗教的興奮を煽る楽器などは扱わないこと
 
ということになります。
彼は音楽教育にこれらの制限を厳守させ、とにかく高度な内容になりすぎないよう求めたわけです。
なぜ彼は、そこまでして音楽教育が専門教育になることを嫌がったのでしょうか。
 

アリストテレスが説く「音楽の実践」の必要性


それは、あくまでも音楽教育の最大の目的が「徳育」だからです。
また、専門の演奏家は自身の徳のためではなく、聴衆の快楽、それも俗悪な快楽のために演奏します。
例えば、楽器の演奏技術に非常に長けた演奏家が超絶技巧の演奏を聴衆の前で披露したとします。
すると多くの聴衆は、彼のそのテクニックに惑わされ、実際の音楽性そのものはそっちのけで彼の演奏を称賛するでしょう。
そうなると、その演奏家は音楽が持つ徳のためでなく「名声」を得るためにさらに修練を積むことになります。
これが繰り返されれば、その演奏家の徳は堕落し、民衆は徳を失った音楽に快楽を求めることになるのです。
その結果引き起こされるのは、気品高き音楽の低俗化であり、最後に残るのは単なる民衆の消費物へと成り果てた音楽です。
 
だからそういった徳のない演奏は、ポリス国家の市民としての自由人にとってふさわしいものではない。
彼はそういったことを主張するのです。
アリストテレスにとって音楽教育とは、俗っぽい音楽の楽しみ方だけでなく、より豊かな楽しみ方ができる知性ある者を育てるためのものなのです。

偉人たちの考えの総括

ここまで、古代ギリシアの3人の偉人たちの見解を解説してきました。
彼らの主張をまとめると、
 
「音楽には調和という性質がある」
「音楽は品性を学ぶために必要である」
「正しい音楽教育によって、音楽をより豊かに楽しむための知性を育てることができる」
ということになります。
 
これらは2000年以上昔の人たちが考えたことですが、現代においても十分通用する内容だと言えるでしょう。
私たちが音楽教育に求めるものは、案外違っていないのかもしれませんね。
 

学校教育における音楽

学校教育における音楽


先の章では、先人の考える音楽教育論を見てきました。
本章では、文部科学省が目指す音楽教育とその意義について、平成29年度版の小学校学習指導要領及び同年度版の中学校学習指導要領、そして教育芸術社「中学生の音楽[令和3年度]」を参考にしながら考えていきましょう。
 

学校教育の音楽が目指す3つのポイント

学習指導要領は約10年に一度のペースで改訂されており、現在使われているのは平成29年度版のものです。
この学習指導要領は一般公開されており誰でも閲覧可能ですので、興味のある方は是非ご覧ください。
 
さて、文部科学省の目指す音楽教育ですが、その目標は小学校学習指導要領第6節「音楽」の冒頭に、はっきりと明記されています。
その部分を引用しましょう。(引用元:文部科学省平成29・30・31年改訂学習指導要領(本文、解説)

 第1 目標
表現及び鑑賞の活動を通して、音楽的な見方・考え方を働かせ、
生活や社会の中の音や音楽と豊かに関わる資質・能力を次のとおり育成することを目指す。
 
(1) 曲想と音楽の構造などとの関わりについて理解するとともに,表したい音楽表現をするために必要な技
 能を身に付けるようにする。
(2) 音楽表現を工夫することや、音楽を味わって聴くことができるようにする。
(3) 音楽活動の楽しさを体験することを通して,音楽を愛好する心情と音楽に対する感性を育むとともに,
 音楽に親しむ態度を養い、豊かな情操を培う。

この冒頭の一文から、文科省の目指す究極の目標は「音楽的な見方・考え方を用いて生活や社会の中の音楽を楽しめるようにすること」であると分かります。
つまり、「生活や心を豊かにするための文化的素養」としての音楽を目指しているわけです。
そしてその後に目標を達成するために不可欠なポイントが、3つ挙げられます。
そのポイントとは、要するに「音楽自体の理解と技能の会得」「創意工夫」「感受性の向上」であり、
これらの要点を達成するために小学校6年間の教育課程が定められているのです。
 

音楽の授業は「気づきの場」

さて、上に記した学習指導要領の内容についての説明を読んで、皆さんはどのように感じたでしょうか。
この説明にあまり納得できなかった方もいらっしゃるかもしれません。
確かに間違ったことは何一つ言っていないのだろうけど、いまいち腑に落ちない。
私はどこかそんな気にさせられてしまいます。
 
では、文科省の示す音楽教育のポイントについてもう少し深く考えてみましょう。
私は、前述の3つのポイントには共通点があるのでは、と考えました。
その共通点とは、それぞれの目標達成には「気づきと喜び」が伴う、ということです。
 
例えば、音楽の曲想と構造について学び、気づく。
あるいは「このように演奏すればどうなるだろう」などと考え、試行錯誤してより良い方法に気づく。
音楽に親しみ耳を傾けることで、それまでは聞き逃していた音に、気づく。
こうした「気づき」の体験が、音楽を「面白い」と思わせ、一層子供たちの「知りたい」を刺激する。
結局のところ私は、実際の音楽教育の現場に一番求められることは「子供たちに音楽的な気づきの場を与えること」だと思うのです。
 
この「気づき」さえ得られれば、子供たちはきっと自発的にその音楽的素養を育んでいくでしょうこれは音楽に限ったことではなく、あらゆる学問に関しても同様のことが言えます。
国語や算数の学習の中で気づきを得られたなら、きっとその教科も子供たちは楽しめるはずです。
 
しかし、あらゆる教科の中でも「気づき」を得るための取っ掛かりが多いのは、音楽や美術などの芸術科目ではないでしょうか。
何しろ音楽や美術は、生活や心を豊かにしてくれるものなのです。
そう考えると、ある憶測が生まれます。
それは、子供たちはまず真っ先に芸術科目で「気づき」の感覚を学んでいるのではないか、というものです。
芸術科目で得たその「気づき」の感覚はのちに敷衍されることで、子供たちは他の教科でもその感覚を実感する。こういうような構造が実際には存在するかもしれないのです。
もしこの仮説が正しいとするならば、「芸術科目を学ぶことは万学を学ぶことの原動力であり、また知的活動への第一歩である」と言えるでしょう。
そしてこの主張は、知と理性との関連においてプラトンの「エートス論」にも通じるところがあるように思います。
 
こうした考えはあくまで私個人の推測に過ぎませんが、この「気づき」の感覚を得られる場を提供するということは学校の音楽教育における一つの重要な意義なのではないか、と私は思うのです。
 

音楽教育は学校教育だけで十分なのか

習い事としての音楽教育の必要性についての疑問は、様々なところで耳にします。
子供にピアノは習わせるべきなのか、あるいは何歳から始めさせるべきなのか、などなど。
こうした疑問は、「学校の音楽教育は子供にとって十分なのか」という問いに繋がってきます。
先の項目では学校の音楽教育の意義についてみてきましたが、本項目では実際に行われている音楽教育が子供たちにとって十分なのかを考えていきます。
 
では、まずは実際に全国で採用されている音楽の教科書について評価してみましょう。
私が参考に取りあげた教科書は教育芸術社「中学生の音楽[令和3年度]」です。
私はこの教材を図書館で入手して一通り読んだのですが、その時の感想は、正直「素晴らしい」の一言に尽きました。
なぜなら、学習の意図が明確に記されており、教材の至る所に学びを深めるための工夫があり、そして扱う内容も非常に精査されているからです。
学習指導要領の要件を満たしているのは当然ですが、それ以上に学習のための配慮がなされているのです。
例えば、扱う内容ごとにQRコードが添付されており、そのQRコードを読み取ればその内容をさらに掘り下げた学びを得られる、という具合です。
こうした工夫は多くの中学生がスマートフォンを持つようになった現代の事情によく寄り添った結果だと思います。
 
このように、学校で採用されている教科書は大変優れたものだということが分かりました。
では、学校の音楽教育は十分だと言って良いでしょうか。
実は残念ながら、そうとも言い切れない事情があります。
それは実際の教育カリキュラムの問題です。
一体どういうことでしょうか。
 
それは簡単に言うと、「授業でいかに素晴らしい教材を用いたとしても、実際に授業の中で取りあげる内容はその中の一部である」ということです。
理想を言えば、教科書に記された内容を全て授業内で扱うことができればそれが一番です。
そしてそれが実現できれば、きっと文句なしに学校の音楽教育は十分だと言えるでしょう。
 
しかし実際の教育現場では、時間割の制限や他教科との兼ね合いもあり、教科書の内容を全て扱うことはできません。
そうすると教育者は、限られた時間の中である程度取捨選択された内容を授業に詰め込むことになります。
そしてそうなってしまえば、教育の質が下がってしまうのはやはり必然と言えるでしょう。
いくら文科省や教科書編纂者が創意工夫を凝らしたところで、実際の教育現場には反映されないことになってしまうのです。
 
その他にも、学校の音楽教育が非難される点はいくつかあります。
例えば、「成績の評価制度」や「合唱コンクールのピアノ伴奏者問題」などです。
私自身の通っていた中学校がそうだったのですが、中学校音楽の歌唱のテストではクラス全員の前で一人づつ歌う、というシステムが採られていました。
歌唱の苦手な生徒や性格上人前に立つのが不安な生徒は、その時に嫌な気持ちを抱いたと思います。
そして生徒はそのテストで本来持っているはずの能力を発揮できず、成績には低い評価を付けられてしまう。
これでは無駄に生徒の苦手意識を膨らませるだけで、彼らに音楽の気づきや面白さを与えることはできないでしょう。
 
また、学校で執り行われる合唱コンクールが多くの場合何故か「各クラスに一人はピアノを習っている生徒がいる」という前提のもとで行われている、
というのもしばしば問題視されています。
これでは学校行事が、生徒の習い事事情に依存していることになります。
果たして、本当にこれで学校の音楽教育は十分と言えるでしょうか。
 
上記から私は、残念ながら学校の音楽教育は必ずしも完全なものとは言えない、と結論づけたいと思います。
 

習い事としての音楽教育が持つ意義とメリット

習い事としての音楽教育が持つ意義とメリット


先の章では、学校教育だけでは必ずしも十分とは言えないという結論に至りました。
それでは不十分な部分をどのように補うのか、そこで登場するのが「習い事としての音楽教育」です。
最後にこの章では、その点について掘り下げたいと思います。
 

ピアノを習うことのメリット

習い事としての音楽教育には色々な種類がありますが、ここでは仮に「ピアノを習う」ということを想定しながら話を進めたいと思います。
 
さて、習い事としての音楽教育が持つ意義の一つは、上記の通り「学校の音楽教育の補完」です。
特に、習い事によるピアノの技術習得は、明らかに学校教育では達成し得ないことだと言えるでしょう。
しかし「ピアノの演奏技術を習得すること」は、学校の音楽教育を一層深く享受する上で非常に重要な役割を持つだけでなく、他にも多くのメリットをもたらします。
 
そのことの一つが、「楽譜が読めるようになる」ということです。
このことは非常にシンプルですが、それは学校の音楽教育を円滑に享受するための重要な手助けになります。
ピアノを習っていない生徒の多くは、音楽素養の基本である「楽譜の読み(・書き)」の習得に多くの時間を要しますし、人によっては結局その能力を習得するに至らない、というケースも珍しくありません。
 
しかし一方で、ピアノを習った経験のある人は、ほとんどの場合その能力を身につけることができます。
楽譜を読むことができれば、音楽に面白さを見出すための取っ掛かりが一つできたことになりますし、楽譜を読むことに対する抵抗や苦手意識に悩むこともありません。
そのため、純粋な気持ちで音楽に向き合えるのです。
 
また、「音楽表現のための考え方」についてより深く学べる、というのも習い事ならではだと思います。
私自身も小中学校時代ピアノを習っていたのですが、あるとき師事していた先生に興味深いアドバイスを受けたことがありました。
それは、「楽譜を平面だと思わないで、立体になっているとイメージしてごらん」というものでした。
つまり、「音楽には起伏や緩急があって、色彩があって、そして立体的なものなんだよ」ということを言われたのです。
そう言われた私は、今まで考えもしなかった「音楽は立体である」という奇妙な感覚が突如分かるようになったのです。
 
このように、習い事としての音楽教育は単に学校教育の補完としてだけではなく、
学校の音楽教育では求められていないレベルの、より専門的で高度な「気づき」を得られる場所なのです。
 

可能性を奪う?ピアノ教育

ここまでで、習い事としての音楽教育によって得られるメリットについて解説しました。
しかし、こうした音楽教育も時には裏目に出てしまい、かえって子供に対して「トラウマを植え付けてしまう」という危険性を孕んでいるということも同時に理解しておく必要があります。
 
この項目で、私は以下の点を強調しておきたいと思います。
それは、第一に「嫌がる子供に対して無理して習わせようとしないこと」、
第二に「決して子供の習熟度に成果を求めないこと」です。
 
何故なら、あらゆる音楽教育において重要なのは子供自身による「主体的な気づき」であって、私たち大人が「気づき」を押し付けるようなことはあってはならないからです。
私たちは、私たちにできる最大限のことは子供たちに「気づきの機会」を与えてあげることであり、子供たちにとっての「受動的な気づき」を押し付けることは無益なのだ、ということを肝に銘じなければならないのです。
 

まとめ

まとめ


以上、音楽を学ぶ意義について考察してきました。
このように音楽教育の在り方とその意義について問うたことで、何か皆様自身の中での気づきなどが見つかりましたら幸いです。
また、この記事の中からもヒントを得て皆様のご家庭の音楽教育に役立てていただければと思います。 
 
お子様及び皆様の「音楽」との関わりがより一層豊かなものとなることを心より願っております。
なお、家庭教師ファーストでは「音楽・楽器の家庭教師」を紹介しております。
教室ではなくマンツーマンで習う音楽の習い事は、お子様一人ひとりに合わせて指導ができる為、習得スピードや効率といった点においてもおすすめです。

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この記事を書いたのは

現役音大生ライターM

家庭教師ファーストの登録家庭教師。大阪音楽大学 在学中。5歳からピアノを習う。現在は作曲について学んでいます。

著作・制作

家庭教師ファースト/株式会社エムズグラント

『質の高いサービスを、良心的な価格で』をモットーに、全国で20年以上家庭教師を紹介しています。実際に担当する教師による体験指導受付中。教育に関する相談もお気軽に。

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