家庭教師ファースト教育コラム社会・歴史の雑学
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私たちが『偉人』に対して抱くイメージには、どのようなものがあるでしょうか。
『新しい世界を作った人』『画期的な変革をもたらした人』『超がつく天才』『完全無欠の超人』
このあたりが、私たちが偉人と呼ばれる彼らに対して持っているイメージではないでしょうか。偉人といえば、レオナルド・ダ・ヴィンチ、エヴァリスト・ガロア、シェイクスピア、アインシュタイン、スティーブ・ジョブズ、日本人では、紫式部、西郷隆盛、太宰治、野口英世、手塚治虫などのたくさんの人の名前を挙げることができますが、彼らの成し遂げたことはあまりにも偉大であるため、このようなイメージを持たれるのも仕方のないことではあります。
確かに、彼らは偉大なことを成し遂げた人物として歴史にその名を残していますが、上のイメージとして挙げたような欠点なしの完璧人間だったかというと、実はそんなことはなく、彼らもまた私たちと同じような人間らしい一面を持っているのです。
今回は、偉人とされる人物たちの意外な素顔に焦点を当てて話をしてみたいと思います。
なお、お勉強の事でお困りごとがありましたら、是非私たち家庭教師にもご相談ください!また、家庭教師の仲間も募集中です。ご興味のある方は下記リンクより是非ご検討ください。
今回最初に紹介する偉人は、レオナルド・ダ・ヴィンチです。少し昔になりますが、ダヴィンチコードという映画も話題になったので知っている方も多いのではないでしょうか。
意外と知られていませんが、レオナルド・ダ・ヴィンチという名前のうち彼の名前を表しているのは『レオナルド』の部分だけで、ダ・ヴィンチというのは『ヴィンチ村の出身の』という意味なのです。そういうわけで、彼のことはダ・ヴィンチとして認識している方も多いとは思いますが、ここでは彼のことは『レオナルド』と呼ばせてもらうことにします。
レオナルドの本職は芸術家ということになっていますが、彼は芸術の分野意外にも多くの才能を表した人物です。その分野は多岐にわたり、音楽、建築、数学、生物学、天文学、生物学、その他にもたくさんの分野において輝かしい業績を残しています。
その中でも特に優れていたのはやはり、専門であった芸術でしょう。『モナ・リザ』や『最後の晩餐』などは世界的に評価を受けており、現代にまでその名を馳せています。
そんな彼の意外な素顔とは、弟子に対する恋心です。
同性愛者であったレオナルドは、30歳年下の美少年の弟子カプロッティに一目惚れをします。レオナルドの恋人であったこのカプロッティという男、実はかなりの曲者で悪魔的に性格の悪い男でした。あまりにも性格が悪いので、レオナルドは彼に小悪魔という意味のサライとあだ名をつけるほどでした。
カプロッティはレオナルドの手記によれば泥棒、嘘つき、強欲などと、とんでもない奴だったことがわかりますが、そんな彼さえも許してしまえたのは、一重にカプロッティへの恋心からでしょう。
レオナルドの作品の中に『洗礼者ヨハネ』『バッカス』という作品があるのですが、これらはカプロッティをモデルにした作品です。また、一説によれば彼の代表作『モナ・リザ』もまたカプロッティをモデルにしたのではないかと言われていますが、ルーブル美術館はこの説を否定しており、今でも真相は闇の中です。
ガロアは、方程式に関する偉大な理論をたった1人で作り上げたフランスの天才数学者です。
ガロアは20歳という若さでこの世を去った不遇の天才として知られていますが、彼の数学者としての人生は15歳の時に数学と出会ったことで始まります。しかし、ガロアの数学者人生は必ずしも幸せなものとは言えませんでした…。
ガロアは名門校、エコール・ポリテニクスに入るべく試験を受けるのですが、この時の数学の試験でガロアは試験官にも理解できないような方法で問題を解いてしまいます。そして、その方法について説明を求められて苛立って試験官に対して悪い態度をとって試験に2回も落ちてしまいます。
結局、ガロアは違う学校に進みます。そこでガロアは科学アカデミーに論文を2回提出しますが、1回目は論文を紛失されたり、2回目はあまりにも進んだ内容ゆえ理解されず却下されてしまったりとかなり恵まれない人生を歩みます。
そして、そんな不遇の天才数学者ガロアは20歳の時に決闘によって命を落としてしまいます。
ガロアは実は、政治活動にも身を燃やしていたことでも有名ですが、決闘の理由は政治的なことではなく、恋愛のこじれによるものでした。ガロアは、当時の国王や王政に反発する行動をとったことで逮捕されるのですが、監獄内でいじめを受けたりして彼は心身ともに衰弱し、療養所に移されることになります。
この療養所でガロアに優しくしてくれた女性がいました。その名をステファニー・デュ・モテルといいそこの療養所の所長の娘でした。女性経験のなかったガロアは彼女の優しさを自分に対する恋心だと勘違いして、彼女に告白をするも振られてしまいます。
それだけならガロアの失恋として話は終わったのですが、当時ステファニーは婚約中でガロアはその婚約相手に決闘を申し込まれてしまいます。決闘の理由は今でも謎のままですが、ステファニーがガロアを振ったのは表向きの話で実は彼女もガロアのことが好きでそのことに気づいた婚約者が決闘を申し込んだとする説が有力なようです。
パリ近郊にて決闘は行われ、ガロアは腹部を銃に撃たれ、その傷が原因で死んでしまいます。決闘前夜、友人たちに向けて遺書を残していたので覚悟はしていたのだと思われます。また、彼は決闘前夜に論文の修正作業をしており、そこに書かれてあったことこそ、彼の最大の功績『ガロア理論』の一部だったそうです。
ガロアは、息を引き取る前に病院に駆けつけた弟にこう言っています。
『泣くな、20歳で死ぬのにはかなりの勇気がいるのだから』
もしガロアがこの決闘をせずに済んでいたらもっと多くの偉業を成し遂げられたのかもしれませんが、そんなことを考えても仕方ありませんね。
ダーウィンは生き物の神秘にスポットを当てた有名なテレビ番組のタイトルにもその名が使われていることから、名前だけでも聞いたことがあるという人は多いのではないでしょうか?ダーウィンといえば、生き物が数十億年もの時間をかけて変化し、今の姿になったメカニズムを説明する『進化論』を提唱した人物として有名です。
彼の生物学者としての人生は、大学に入ってジョン・ヘンズロー教授という人の植物学の授業に夢中になったことから始まります。ある時、ダーウィンは、ヘンズローから『南米大陸の調査についてこないか』と誘われます。ダーウィンは、その調査に同行し、5年にわたってガラパゴス諸島をはじめとする多くの島に立ち寄り生物を観察し、標本を採取しました。その結果、考えついたのが進化論でした。
しかし、ダーウィンはこの進化論を発見してすぐにはそれを発表できませんでした。なぜなら、当時のキリスト教の考えによれば、生き物とは全て神が創造したものでありその教えに反する進化論はバッシングを受けることが考えられたからです。
そこで彼は、進化論の正しいことを証明するために時間をかけて理論を構築して確証に近づこうとしました。そして、ようやく本にまとめようとした時、信じられないことが起こります。なんと、ダーウィンの進化論とほとんど同じ内容の本を出そうとしている人物が出てきたのです。その人物の名は、アルフレッド・ウォレス。彼は、ダーウィンのガラパゴス諸島などの研究の旅に触発されて自分自身も探検調査を行い、結果的にダーウィンと同じ結論に至ったのです。
このことを知ってダーウィンは焦ります。なんといっても、彼に先に本を出されては、自分の今までの苦労が水疱に帰すわけです。そこで、ダーウィンはウォレスに共同名義による発表を持ちかけます。もともとダーウィンに憧れていたウォレスは、その申し出を快諾してくれました。
基本的にダーウィンは地位や名誉にこだわらない性格だったようですが、この時ばかりはさすがに焦ったのでしょう。
『ハムレット』や、『ロミオとジュリエット』などの数々の歴史的に有名な戯曲(演劇の脚本のこと)を残した人物こそ、ここに紹介するシェイクスピアです。シェイクスピアは、20歳の頃はどこにでもいるようなごくありふれた3児のお父さんでしたが、その8年後に突然劇作家として『ヘンリー6世』という作品を発表します。その後も続々と先に挙げたような傑作を発表して、瞬く間に劇作家界のカリスマ的な存在になっていきます。
彼の戯曲のすごいところは、宮廷社会や歴史学、法学、博物学などの多岐にわたる叡智を含んでいるところにあります。
また、彼の作品に含まれる語彙数は3万にも上り、普通の人が日常的に用いる語彙の4000を遥かに超えるものとなっています。中等教育を受けた程度のシェイクスピアにそんな語彙を操れたというのだからすごいものです。
これで、『シェイクスピアすごい!』で終われば話は早いのですが、実はそうもいかず、『シェイクスピアというのは実は偽名で、戯曲は別の誰かが書いたのではないか?』という疑惑が浮上します。
実は、シェイクスピアはとても謎に満ちた人物で出生記録や自筆の原稿が残っていないことといった、彼の作家としての実像を伝える資料がほとんど見つかっていないことから『文学史上最も謎に満ちた劇作家』と言われることがあります。
シェイクスピアの正体となる人物の候補は何人かいるようですが、特に有力視されているのがイギリスの哲学者フランシス・ベーコンという人物です。ベーコンは、法学者でもあり、司法卿や大法官をも歴任した当代きっての知識人です。彼ならば、宮廷作法や歴史、法律にも精通しているためその知識を戯曲に反映させることもできたでしょう。
更に、彼は自身のことを『隠れた知識人』と称していたり、シェイクスピアの肖像とベーコンの肖像画よく似ていることからも、実はシェイクスピアとベーコンは同一人物なのではないか?と言われています。
他にも、エリザベス女王のお気に入りの臣下であり劇作家である人物や、外交官など様々な人がシェイクスピアの正体として候補に上がっています。
また、シェイクスピアというものは実は一種の『屋号』のようなもので劇団関係者共同のペンネームであったとする説もあります。このようにシェイクスピアという人物は、その素顔が分からない謎に包まれた偉人だったのです。
国語の教科書で彼の小説を読んだことがあるという人も多いのではないでしょうか。そして、教科書で読まれることの多い太宰治の小説といえば、『走れメロス』が有名です。太宰治の生きた時代には、彼の他にも優れた小説家が何人かいて、中でも有名な人物として芥川龍之介が挙げられます。芥川龍之介の作品では、『羅生門』『蜘蛛の糸』あたりが有名ですね。
実は太宰治という男、この芥川龍之介の大ファンでした。どれくらい大ファンだったかというと、学生時代にノートに芥川龍之介の似顔絵や『芥川龍之介』の名前をひたすら書き続けるぐらい大ファンでした。芥川龍之介と同じ東京帝国大学に進んだ後も、自分の歳の頃には芥川龍之介は何を書いたのか、と自身と芥川龍之介を常に比べていたようです。
ところで、芥川龍之介の名前が今でも広く有名な理由の1つに、芥川賞があります。
芥川賞は主に純文学の新進作家に与えられる賞として1935年に設立されました。芥川賞は、文学を志す者の多くの憧れですが、太宰治もまた、芥川賞に憧れる者の1人でした。彼は先ほども述べた通りの芥川龍之介の大ファンなのですから当然とも言えるでしょう。
しかし、太宰治の芥川賞へのこだわり、執着はあまりにも強すぎるところがありました。そのことを表しているエピソードを紹介しようと思います。
太宰治は26歳の時、『逆行』と『道化の華』という作品を発表しますが、なんとこの2つのうち『逆光』が第1回芥川賞の候補に挙がります。しかし、残念ながら芥川賞は獲れませんでした。ここでは太宰治も少し落ち込んだ程度で舌が、選考委員の1人である、川端康成の選評を目にして、彼は怒り狂います。
川端康成の選評には、『私見によれば、太宰の目下の生活には厭な雲ありて』と書かれていたのです。厭な雲とは、当時太宰治が薬物中毒に陥っていたことや、都新聞社の入社試験に落ちて失踪していたことなどを指します。太宰治は当時、女性と心中事件を起こして自分だけ助かるなどのお騒がせな人物でした。川端康成は、私生活に問題があるから才能が発揮できないのだと太宰治を諭すつもりだったのでしょう。
しかし、プライベートなことに口を出された太宰治は逆切れします。川端康成への反論文を出すところまではまだ良かったのですが、次第に反論に域を超えた悪口を言うようになり、しまいには『刺す』という言葉まで使います。ここでは、川端康成が太宰治に謝罪したことで事は収まりますが、彼の芥川賞を巡る暴走はここでは終わりません。
太宰治は、第1回の選考会で作品を高評価してくれた文学界の重鎮、佐藤春夫に師事するようになります。川端康成とのやり取りでは、かなり強く出た太宰治でしたが、ここでは太宰治は佐藤に芥川賞をねだりまくるという情けないところを見せます。『私を助けてください、見殺しにしないでください』といった内容の書面を長さ4メートルにもわたる巻紙に書いて寄越したというのだから、彼の必死さが伺えます。
また、太宰治が芥川賞にこだわる理由はもう1つあって、それは、副賞の500円(現在は100万円)でした。彼は、大学の授業料を滞納していたり、薬を買うお金に困っていたりで多方に借金をしていたのでその賞金はなんとしても欲しいものでした。しかし、第2回の選考会では遂に候補者に選ばれることさえありませんでした。そんな太宰治が次にとった行動は、以前トラブルのあった川端康成にすがるという情けないものでした。
その後は、師事していた佐藤ともトラブルがあり、遂に芥川賞をとることができなかった太宰治でしたが、薬物中毒から立ち直った彼は、『斜陽』『人間失格』などの後世に残る名作を発表します。
そして、1948年。愛人の女性と共に東京の玉川で入水自殺をしてその人生に幕を下ろしました。
なお、太宰治の作品については別の記事でも触れておりますので、是非そちらもご一読ください。→教科書によく出る作家「太宰治」~走れメロス~を解説
名前だけでもなんとなく聞いたことがあると言う人もいるのではないでしょうか?
宮本武蔵は、剣術の達人で、60余戦してその戦い全てに勝利を収めているという強さを持っています。また、ストイックに鍛錬に励み、剣の道を極めようと努力し、吉岡一門や佐々木小次郎といった剣豪たちにも勝利を収めていることで知られています。二刀流を完成させた人物としても有名です。
特に、佐々木小次郎との巌流島での決闘は小説や漫画などの創作の題材としてもよく使われているため、このあたりの話だけ知っているという人もいることと思います。しかし、宮本武蔵の名前や、彼が強い剣豪であったことはなんとなく知っていても、彼がどのようにして数々の勝利を収めてきたかを知っているという人もいるかと思います。
実はこの宮本武蔵という男、勝つためには手段を選ばないところがある人物で、その勝ち方には正々堂々とはいえないようなものもあります。
宮本武蔵は20歳頃の時に、当時京都最強とされていた吉岡一門に勝負を挑みます。一門からは当主である吉岡清十郎が戦いに挑むことになります。この時、彼は遅参法という、約束の時刻にわざと遅れてやってくるという戦術で清十郎を翻弄します。
この作戦が功を奏し、清十郎は彼の木刀の一撃を受け、敗北します。このことにもちろん吉岡一門が黙っていられるわけはありません。次は、清十郎の弟である伝七郎が宮本武蔵に勝負を挑みます。この時にも宮本武蔵は同じ遅参法を使い伝七郎に勝利し、伝七郎はこの戦いで命を落としてしまいます。
当主兄弟を倒されたことで遂に堪忍袋の緒が切れた吉岡一門は、宮本武蔵に最後の戦いを挑みます。一門の代表者であり清十郎の子供である又七郎は、門弟を100人揃え、鉄砲や弓といった飛び道具も準備します。このことを聞きつけた宮本武蔵は、いつも使っている遅参法ではなく、奇襲戦法をとることにします。味方の人数や使う武器によって油断していた一門を宮本武蔵は待ち伏せ、相手が揃ったところでいきなり姿を表して又七郎を斬りつけてさっさと帰ってしまいます。
また、宮本武蔵を語る上で外せない、佐々木小次郎との巌流島での戦いにおいても、宮本武蔵はなかなか卑怯な手段をもって勝利を手にしています。無敗の剣豪である佐々木小次郎の噂を聞きつけた宮本武蔵は、彼に決闘を申し込みます。ここでも宮本武蔵はわざと試合に遅れてやってきます。
そのことを咎めても謝罪も言い訳もない宮本武蔵に怒りが頂点に達した佐々木小次郎は刀を抜き、鞘を投げ捨てます。これに佐々木小次郎の怒りを見てとった宮本武蔵は、『小次郎、敗れたり!』や『勝つつもりがあるなら何故鞘を捨てる?』などと無茶苦茶な難癖をつけて佐々木小次郎の神経を逆撫でします。
結局、佐々木小次郎は宮本武蔵の言葉巧みに動揺を誘う作戦に乗せられてしまい、真っ向から打ち込み、宮本武蔵に脳天を叩き割られてしまいます。遅参法、奇襲法、言葉で相手の感情を煽って勝利を収めたり、時には勝てない相手と知ると、決闘を申し込まれてもそれを受けず逃げてしまったりと卑怯な素顔があったことが窺えます。
ここでは、2人の人物について扱っていきます。この2人は、平安時代の女流作家です。紫式部は『源氏物語』、清少納言は『枕草子』で有名です。どちらも日本の名作古典です。
この2人は実は一条天皇の妃に仕える家庭教師をしていました。清少納言は中宮定子に仕え、紫式部は中宮彰子に仕えていました。定子の父親は藤原道隆、彰子の父親は藤原道長で、彼らは自分の娘を天皇に嫁がせてその子供を天皇にすることで政治の実験を握ろうと目論む、ライバルでした。
彼らに仕える清少納言、紫式部の2人もまたライバル関係のようなものにあり、お互いの作品のことはよく気にしていたそうです。特に、紫式部の方は清少納言に対して大きな敵意をもっていたようで、そのことは彼女の日記から見てとることができます。
清少納言の作品、『枕草子』は日本初の随筆といわれており、彼女の宮廷における生活で感じたことを描いたものになっています。この中で彼女は、自分の好きなものに対してはもちろん、嫌いなものについてもストレートに描いていました。自分でも『人の悪口を言うのが好きだ』と述べており、その餌食になった人の1人に、紫式部の夫である藤原宣孝でした。
質素な服装で行くべきところに派手な格好で行ってしまったり、歌の読み合わせで上手く言葉を思いつけなかったりといった藤原宣孝の小さな失敗を取り上げては、清少納言は彼を小馬鹿にしていました。当然紫式部としては、『私の夫に対してそんなに言わなくても良いじゃない』と快くは思わないわけです。
自分の思いをずけずけと言う清少納言とは対照的に紫式部の方は、知性をひけらかすのを好まない控えめな性格でした。そんな紫式部と、賢さを前面に出したがる清少納言が合わないのは当然のことでした。
紫式部の日記の中で、清少納言について書かれているのですが、その内容は大変ひどいものでした。『偉そう』『あんな女の教養は偽物』『自分から知識をひけらかしてみっともない』『あんな薄っぺらな態度ではろくな人生を送らない』などと、散々な言い様です。
また、紫式部はポジティブな清少納言とは反対にネガティブな性格で、宮廷での生活を楽しむ清少納言とは違い、宮廷で働いているのは嫌々だったということです。宮廷での同僚と上手くやっていくことができなかった紫式部にとって、宮廷での生活を楽しんでいる清少納言というのは、あまり気持ちの良いものではなかったのでしょうね…。
いかがでしたでしょうか。偉人と聞くとどうも、みんなキラキラとした華やかな人生を送っており、落ち込むこともなければ失敗することもない、明るい人生を送っているものと思ってしまいそうですが、実は意外とそんなことはなくて、偉人たちもまた、私たちと同じように、もしかしたら私たち以上にダメな所、カッコ悪い所をもっているのです。
このことを知った後だと、私たちも自分のダメな所やカッコ悪い所を少しは好きになれるのではないでしょうか。ここまで読んでいただいてありがとうございました。
なお、お勉強の事でお困りごとがありましたら、是非私たち家庭教師にもご相談ください!また、家庭教師の仲間も募集中です。ご興味のある方は下記リンクより是非ご検討ください。
参考文献:歴史の謎を探る会編「やばい偉人伝」
現役九大生ライター A.Y
家庭教師ファーストの登録家庭教師。九州大学 理学部 数学科在籍。数学が苦手な人に寄り添って指導します。