家庭教師ファースト教育コラム社会・歴史の雑学
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みなさん、歴史は好きですか?
暗記科目だから好きじゃない…。授業を受けていると眠くなる…。そんな声が聞こえてきそうですが、歴史はそのストーリーを知れば、覚えることも苦ではなくなります。というより、自然と単語を覚えるようになります。
今回は歴史に興味を持ってもらえるようなテーマを用意しました。題して「日本史ミステリー:聖徳太子は実在したか?」。どうですか?ちょっと面白じゃないですか?是非最後まで読んでいただけると幸いです。
なお、お勉強の事でお困りごとがありましたら、是非私たち家庭教師にもご相談ください!また、家庭教師の仲間も募集中です。ご興味のある方は下記リンクより是非ご検討ください。

聖徳太子といえば、みなさんが使用している(いた)歴史の教科書に必ず出てくる名前でしょう。もちろん、表記が聖徳太子(厩戸王)となっているかもしれませんが…。ただ、いずれにしても、日本の歴史上ではかなりの有名人です。
しかし、その聖徳太子が実在しなかったという説があるのです。みなさんはえっ!と驚くかもしれませんが、歴史上の人物が本当に存在したかを証明するのは実は難しいのです。
もちろん、近現代に限定すれば、数多くの証拠を見つけることができますし、ある人物の存在を証明することはある程度可能です。しかし、古代までさかのぼると史料の数は限られ、ある人物が存在したかを証明することは困難を極めます。とりわけ、聖徳太子は飛鳥時代の人ですから、残された史料は少なく証拠も限定されますからなおさら難しいのです。
しかし、一方でその残された史料を丹念に読みこんでいくことで、浮かび上がってくる真実もあるのです。
本論では聖徳太子非実在説を紹介し、どのような証拠をもとにこの説が唱えられたかを見ていくことにします。ただし、一方に意見が偏るとあらぬ誤解を招くことになると考えられますので、多数の反対意見も併記しておきます。現在は反対意見の方に有力な議論が多くなっていますが、決して非実在説を完全に論破できたともいえないので、気楽に読んでみてください。

非実在説を紹介する前に、聖徳太子(厩戸王)について振り返っておきましょう。
聖徳太子は、用明天皇と穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)との間に生まれました。間人皇女は蘇我氏の娘であるため、半分は蘇我氏の血が流れています。聖徳太子は幼いころより賢く、10人の話を一度に聞くことができたという逸話も残されています。そのため、現代でも神格化される傾向があります。
ここで当時の日本について少し触れておきます。
当時の日本は、日本古来の神様を大切にする物部氏と、外国からきた仏教を大切にする蘇我氏が対立していました。両者の対立は深まるばかりで、政情は安定しませんでした。
太子は血縁上蘇我氏の一族で、幼いころより仏教に親しんできたこともあり、蘇我氏方に味方し物部氏を滅ぼします。
その後、推古天皇の摂政として十七条の憲法や冠位十二階を定め、天皇を中心とする政治体制の構築に尽力しました。また、小野妹子を遣隋使として派遣し、隋の文化を吸収することにも努めました。そして、忘れてはならないのが、世界最古の木造建築である法隆寺を建てて、仏教を厚く信仰したことです。とりわけ、太子は『三経義疏(さんぎょうのぎしょ)』という仏教の注釈書を書いています。この書物は太子以後の仏教界にも影響を与えており、浄土真宗の開祖である親鸞は太子に大きな影響を受けていると言われています。
このように聖徳太子は政治面では確固たる体制を固め、文化面では外国に学ぶという開かれた視野を持った人物であったといえるでしょう。このように見ていくとあまりにも功績が多く、伝説化されるのも仕方ないほど聖徳太子は活躍しているわけです。

それでは前置きが長くなりましたが、いよいよ聖徳太子非実在説についてお話しすることにしましょう。この説を唱えている最も有名な論者は中部大学の大山誠一名誉教授です。
大山氏は3つの史料が聖徳太子のものではないことを根拠に非実在説を主張しています。3つの史料とは十七条の憲法、『三経義疏(さんぎょうのぎしょ)』、天寿国繍帳です。ここからはそれぞれ論拠をあげて説明しましょう。
大山氏は十七条の憲法は当時の日本の文化水準では書くことが不可能であったと述べている。その根拠として、十七条の憲法には中国の古典がたくさん引用されていることを挙げています。では、なぜ中国の古典がたくさん引用されていると当時の文化水準で書けないのでしょうか。それは『隋書』という書物に次のようなやり取りがあったことからうかがえます。
日本からやってきた使者が「倭王は天を兄とし、日を弟としている」と発言し、「天(兄)がまだ明けないときに政治をおこない、日が出て明るくなると日(弟)に政治をゆだねる」と言ったとあります。
この発言には、当時の日本の政治スタイルがうかがえます。ただ、中国では天は絶対的神であり、その命を受けたのが皇帝です。もし、中国の古典に通じているなら、日本側の使者が中国の政治秩序を無視した発言をするはずがありません。では、なぜこのような発言をしたのでしょうか。
当時、朝鮮三国(高句麗・百済・新羅)は戦略的意味で日本との友好を得るために、仏教文化や技術を惜しみなく与えました。この動きに対し、日本は朝鮮三国にたいして尊大な気持ちになったのです。誇張して言えば、朝鮮三国の命運は俺たち(日本)が握っているとさえ思ったのかもしれません。そういう発想が朝鮮三国を超えて中国に対してもそのような見方になり、上記のような天の思想をわきまえない発言も生まれたわけです。
このような状況を踏まえれば、当時の日本では中国の古典に学ぼうという機運が起こりづらかったと言えるのです。そういう中で、中国の古典からの引用が多い十七条の憲法が作られたはずがないと大山氏は結論づけます。
まず、『三経義疏』とは何かをお話ししましょう。『三経義疏』とは法華(ほっけ)経・維摩(ゆいま)経・勝鬘(しょうまん)経のことであり、これら3つの注釈書です。この注釈書は以前から聖徳太子が書いたと言われており、とりわけ『法華義疏』は太子の直筆草稿本も残っています。
しかし、大山氏は藤枝氏の研究を引いて、三経のうち『勝鬘経義疏』は、
「敦煌出土の『勝鬘経義疏本義』と称されたものと聖徳太子撰と称する『勝鬘経義疏』が七割同文で、同系統の注釈書であることを示し、……、聖徳太子撰のものは六世紀後半の中国北朝で段階の成立」(引用:聖徳太子の真実(著)大山誠一)
したと結論付けました。すなわち、『三経義疏』は中国から輸入されたものであり、聖徳太子は書いていないというわけです。
天寿国繍帳は聖徳太子が亡くなったあと、太子の妃であった多至波奈大郎女(たしはらのおおいらつめ)が推古天皇にお願いをして刺繍してもらったものです。これは、太子が往生した天寿国を再現してほしいとの願いが込められています。中宮寺にある『上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)』によれば、太子の妃が推古天皇に依頼した旨が書かれており、それが本当なら聖徳太子は実在すると言って良いはずです。
しかし、大山氏は銘文に天皇号があることや、儀鳳暦(ぎほうれき)が採用されていることを根拠に、天寿国刺繍は後世の作であると言います。天皇号は天武天皇の頃から使われ始めた称号で、それ以前は大王(おおきみ)と呼ばれていました。このようなことを踏まえれば、推古天皇の時代に天皇号が使われたはずはありません。
また、儀鳳暦とは、唐の時代の暦で、日本では持統天皇の頃に採用されたものです。一方、推古天皇の時代に使用していたのは元嘉暦(がんかれき)です。つまり、推古天皇の時代には儀鳳暦は存在しないわけです。したがって、天寿国刺繍は後世の作といって良いと大山氏は主張しています。

ここまでの三点から、大山氏は聖徳太子という存在は『日本書紀』編纂時の創作であり、存在しないと主張します。では、誰がどういう目的で聖徳太子を創りだしたというのでしょうか。
『日本書紀』が成立したのは奈良時代です。この頃、権力を握っていたのは藤原不比等(ふじわらのふひと)と長屋王(ながやおう)でした。2人は『古事記』のような万葉仮名で書かれた歴史書ではなく、漢文の美しい文体で書かれた歴史書を必要としました。それは当時、遣唐使を派遣し、中国から様々な思想や技術を学ぶ中で、中国思想に堪える歴史書を書く必要があったのです。つまり、天皇が中国皇帝と形の上では対比できる存在であるということを示し、国家統治の正統性をアピールすることが大きな課題としてあったわけです。
では、誰がそのような歴史書が書けるのか。これは中国皇帝に会ったこともあり、中国の古典に通じた人でなければ、不可能です。そこで白羽の矢が立ったのが道慈(どうじ)だったわけです。道慈は16年も唐に留学しており、中国の古典に通じていることはもちろんのこと、中国皇帝にも実際に会ったことがあります。これほど適任な人はいないと言ってもいいでしょう。その道慈が帰国したのです。こうして、『日本書紀』の編纂が始まりました。
ここまで『日本書紀』の編纂者についてはお話ししたので、聖徳太子という人物が創られた目的についてお話ししましょう。ところで、みなさんは「歴史書なのだから事実を淡々とつづれば、良いのでは?」と思うかもしれません。しかし、歴史書の編纂は常に目的を持って、書かれます。例えば、織田信長が鼻水を垂らした回数や食べ物を咀嚼した回数などは歴史書に書かれません。なぜなら、それは万人にあることであって、織田信長固有の問題ではないからです。そもそも、ある人物を書こうとすると全部を記述することはできません。どこかで抜け落ちてしまうものです。しかし、ある目的を持って、描写されれば、例え他の事実が抜け落ちていても、用が足りるわけです。
少し脱線したかもしれませんが、聖徳太子がなぜ創作されたかに迫っていきましょう。大山氏は次のように言っています。
「日本が真に中国的な国家になるには、法や制度だけではいけない。その頂点にある天皇が、中国皇帝のように、絶対的権威を備え、儒仏道三経の保護者として君臨せねばならない。」と述べ「モデルとしてあり得べき中国的聖天子像」
としての天皇が必要だったわけです。そこで理想的な天皇像として聖徳太子が創作されたというわけです。ただし、まるっきり架空の人物の創作は難しいため、厩戸王という人物に仮託していろいろと尾ひれをつけて、創られたというわけです。したがって、厩戸王は単に斑鳩寺を建立したにすぎず、仏教を信仰しただけの平凡な存在であったというのが大山氏の最終的結論になっています。

ここまで大山氏の聖徳太子非実在説を紹介しましたが、この説に対する反論も多数あるので、ここからは名前という視点から大山説を再検討してみることにします。
ところで、みなさんの使っている歴史の教科書では聖徳太子と厩戸王の両方の名前が書かれていることでしょう。しかし、なぜ2つもあるのか。これはよく言われているのは生前の名前が厩戸王、亡くなった後に贈られた名前が聖徳太子であるという説です。
しかし、本当にそうなのでしょうか。実は日本最古の歴史書である『古事記』にも『日本書紀』にも、聖徳太子・厩戸王両方の名前がないのです。
では、聖徳太子あるいは厩戸王という名前はいつ頃の史料から現れるのか。これには諸説ありますが、聖徳太子の名前が初めて現れるのが『懐風藻』という日本最古の漢詩集です。
『懐風藻』は奈良時代に成立した書物なので、少なくとも聖徳太子という名前は奈良時代までさかのぼることができます。一方、厩戸王という名前が初めて現れるのは『甲斐国志』という書物です。『甲斐国志』は江戸時代に成立した書物なので、多くとも江戸時代までしかさかのぼることはできません。
したがって、聖徳太子が死後の贈り名であったことは有力ですが、厩戸王という名前が生前の名前であったのかは疑わしいわけです。これは大山氏の非実在説における「聖徳太子が『日本書紀』によって創作された」という主張に無理がある論拠になります。なぜなら、『日本書紀』には聖徳太子という名前は出てこないからです。さらに厩戸王という名前も『日本書紀』、『古事記』に記述がありません。したがって、名前の視点から大山説を検討すると、非実在説の根拠に揺らぎがでてきます。
証拠②は『三経義疏』が輸入品だという説でした。しかし、この説には大きな疑問がていされており、駒澤大学名誉教授の石井公成氏は厳しく批判しています。
石井氏は『勝鬘経義疏』の記述に極めて倭習が多いと指摘します。倭習とは日本人が漢文を書く際にどうしても表れてしまう癖のようなものです。つまり、中国人なら絶対に書かないような漢文で『勝鬘経義疏』は書かれているわけです。少し誇張して言えば、てにをはが覚つかない人が文章を書いていると想像してみてください。もし、仮に『勝鬘経義疏』が中国から輸入したものだと考えると、てにをはも覚つかない人が仏教の注釈書を書いていたことになってしまうのです。これはあまりにも当時の中国にいた僧侶を馬鹿にしている議論ではないでしょうか。
このような論証から『勝鬘経義疏』は中国から輸入されたものではないと石井氏は結論づけます。さらに石井氏は「十七条の憲法」と『勝鬘経義疏』との比較研究もおこない、両者かなり似ている部分が多いと指摘し、おそらく聖徳太子は朝鮮から来た僧侶の指導のもと、これらの書物を執筆したのではないかとの仮説も立てています。この指摘は大山氏の立てた『三経義疏』の輸入説の根拠をかなり崩すものになると言っても良いでしょう。
証拠③は天寿国繍帳が後世の作という説でした。この説に対して同志社大学教授の北康宏氏が批判しています。そもそも、なぜ後世の作であったかというと、儀鳳暦という持統天皇の時に採用された暦をもとにしているからだというものでした。しかし、儀鳳暦には2つの計算方法があります。
① 定朔法(ていさくほう) 太陽や月の運行速度を考慮した複雑な計算法
② 平朔法(へいさくほう) 年間を通して一定の速度とする簡単な計算法
『日本書紀』では過去の歴史を記述する際、儀鳳暦の平朔法が用いられています。本当に持統天皇の時代に天寿国刺繍が作成されたのであれば、わざわざ複雑な定朔法を使って計算したでしょうか。やはり簡単な平朔法で計算したのではないかと考える方が自然です。つまり、ここで大山説にかなり大きな疑問符がつくわけです。
そもそも、この議論の発端は天寿国繍帳のある記述を当時の元嘉暦(がんかれき)ではなく、儀鳳暦の定朔法で計算するとズレがなくなると指摘したことにあります。しかし、この指摘は天寿国繍帳が儀鳳暦に基づいて作られたことを証明するものではなく、後から当てはめて計算してみると、たまたまズレがなくなったと言っているに過ぎません。
したがって、天寿国刺繍が後世の作であるとまでは断定できないわけです。

ここまで大山氏の説への反論を見てきました。特に名前の議論は教科書検定の時にも国会などで議論され多くの人が議論に加わりました。しかし、『日本書紀』や『古事記』にも厩戸王という名前はなかった。これはかなり大きな論点です。この事実が広く認知されていないのは大変残念なことです。
もうひとつの論点は、『三経義疏』の文章に倭習が多いというものでした。これは石井氏がコンピューターのデータベースから倭習の度合いを算出したもので、かなり信用性のある証拠と言えるのではないでしょうか。
最後の論点である天寿国繍帳が後世の作であるというのも、少し行き過ぎた議論で、儀鳳暦を当てはめるとズレがなくなるのは後づけです。
このように聖徳太子がいなかったとする議論は様々な問題を抱えており、大山氏の主張にどうしても粗が目立ってしまいます。やはり、聖徳太子がいなかったというのは少し行き過ぎた議論かもしれません。

ここまで聖徳太子の不在説とその反論について見てきました。大山氏の説はずいぶん前に出されたものなので、最新の学説からすると不備が目立ち、論拠が弱くなっています。しかし、その反論も聖徳太子が絶対に存在したことを示すものではなく、あくまでも大山説の不備に対する反論であり、聖徳太子が実在したことを示す論拠にはなりません。
このようにかつて言われた説がひっくり返されたり、また戻って来たりするのが学問の最前線ともいえます。そういうわけで良かれ悪しかれ聖徳太子は時代によって見方が大きくことなる歴史上の人物です。例えば、戦前、聖徳太子は非常に伝説的な聖人と語られ、戦意高揚に利用されたこともあり、一方で戦後はその反省から不当に平凡な人物であったと語られたこともあります。ある種、振り子のごとく揺れ動いている人物でもあるのです。
私たちは聖徳太子の極端な不在説、極端な礼賛説から距離をとって、本当の姿に迫る必要があるのではないでしょうか。もちろん、これは歴史家の仕事かもしれません。しかし、歴史の議論は歴史家だけのものではなく、私たちも相応の知識をもとに参加することは許されるはずです。

さて、いかがだったでしょうか。「なんだかよくわからなかったなあ」そんなふうに思ったかもしれません。実はその感想は正しいのです。聖徳太子はたくさんの論点があり、それに対して様々な批判がくわえられており、研究者の間でも見方はバラバラです。そういう状況が極端な論を引き寄せている面もあります。なので、みなさんは分かりやすいところから入っていくと、良いかもしれません。
そこでおススメしたいのは、聖徳太子と法隆寺のつながりからアプローチした論文です。2つほど紹介しておきます。
ひとつは梅原猛氏の『隠された十字架―法隆寺論―』です。この論は法隆寺の7つの謎を提示して、その謎に答えていくという非常にスリリングな論考になっています。私も学生時代に読んで、梅原氏の推理小説のようなタッチに非常に魅了されました。
もうひとつは武澤秀一氏の『法隆寺の謎を解く』です。これは先に挙げた梅原説への反論になっており、建築学の視点から法隆寺の謎に挑んでいます。
この2冊を手に法隆寺を訪れてみるのも良いでしょう。もしかしたら、思わぬ発見をするかもしれません。
みなさんも興味が湧いて来たら、どんどん関連する書籍にあたってみてください。さまざまな事実の集積の中から、真実の一端に触れることができるかもしれません。はたまた余計に分からなくなるかもしれません。私自身、聖徳太子の本をあたっていくうちにわかなくなったり、こういうことだったのかと納得したり、また分からなくなったりします。しかし、そういうことを繰り返していくことが歴史を研究していくことでもあります。
まだまだ謎に包まれた聖徳太子という存在を、みなさん独自の視点からいろいろと想像してみるのも面白いのではないでしょうか。
なお、お勉強の事でお困りごとがありましたら、是非私たち家庭教師にもご相談ください!また、家庭教師の仲間も募集中です。ご興味のある方は下記リンクより是非ご検討ください。
家庭教師ライター Y.F
家庭教師ファーストの登録家庭教師。近畿大学文芸学部卒。得意科目は英語と日本史!