家庭教師ファースト教育コラム社会・歴史の雑学
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今回の記事では、由来がなかなか怖い日本の地名25選というテーマでお送りします。
みなさんの家の近くに、「変わった名前の町だな」と思うような地名はないでしょうか。平凡なものもあれば、見たことない漢字・読み方をするような地名もたくさんあります。中には、人の死であったり、幽霊・昔話が関わっていたりするなど、いわくつきの由来を持っている地名もあります。
京都を中心にして、全国各地でこういった恐い語源を持っている地名を紹介していきます。
なお、お勉強の事でお困りごとがありましたら、是非私たち家庭教師にもご相談ください!また、家庭教師の仲間も募集中です。ご興味のある方は下記リンクより是非ご検討ください。

衣笠(きぬがさ)は京都市北区にあるエリアの名前の1つです。
当時の京都の中心部である「洛中」で亡くなった民衆は、京都の中心から外れた場所である「洛外」の葬送の地へと葬られていました。
また、当時と言うのは京都に都があった、平安時代前後のことをいいます。
その当時は風葬といって、遺体をそのまま雨風にさらすことで自然に還す方法をとっており、遺骸を覆い隠すために、使う布・綿が、絹かけや衣笠だったのです。
そこで、当時死者が放置され、風葬が行われていたことが「衣笠」の由来となっているという説があるということです。
なんとも恐ろしいですね。
ただし、衣笠という地名には他の(比較的明るめな)説もあります。
宇多天皇(平安時代の天皇の一人)が、「真夏に雪が見たい」という風に臨んでいたことから、その地区の山々に雪が白絹のように降り積もるように、という願いをこめて「衣笠」という名前になったという説です。
できるなら、後者の説が真実であってほしいものです。
千本通りというのは旧名で、現在は朱雀大路と呼ばれています。
この通りの真北に位置する「船岡山」という山の西に、死者を埋葬していた場所があったと伝えられています。
つまり、千本通りとは、千本にも及ぶほどの無数の死者が、船岡山まで運ばれていた通りだった、というのが名前の由来なのです。
ひっきりなしに運ばれていく死者を弔うため、当時の千本通りの両側には無数の卒塔婆が立てられていたそうです。
また、船岡山の公園の手前には「閻魔前町」という町があります。
その場所は閻魔様の住む場所、つまり「あの世への入口」としてつけられた地名だったという説があります。
このように、千本通りはもちろんとして、その周辺の地域も死者にまつわる地名になっているのです。
源義経は16歳になった時、金商人(砂金などの売買を仕事をする人)である金売吉次とともに奥州平泉に旅立ちました。
道中のある地域で、平家の家臣ら10名が義経らの正面からやってきます。
そのすれ違いざまに、彼らの乗っていた馬が水たまりの水を蹴り上げたところ、泥のまじった汚れた水が義経にかかってしまったのです。
義経はこれに激怒し、家臣ら10名を即座に切り捨てた、という言い伝えが残されているのです。
現在だとそれだけで切り捨ててしまうのか、と考えてしまいますが、当時だと高い身分の人に対する無礼の報いとしての死は当然だったのでしょう。
そういった由来で、そこの場所は「蹴上」と名づけられたという説があります。
また、別の言い伝えとして、洛中から罪人を蹴り上げて気絶させ、九条山の刑場に連れて行ったことから、蹴上という名前になったという説もあります。
いずれにしろ、蹴上という地名は「死」「処刑」に関わっているのです。
現在、東山から蹴上にかけてのエリアは、まさに京都を感じられるようなとても文化的で魅力のあるエリアです。知恩院や平安神宮なども徒歩圏内で、京都市立美術館や博物館などもすぐ近くに位置しています。
現在の蹴上からは程遠いような理由が由来となっているのが、そこら周辺のエリアということです。

さて、お次に紹介するのも京都の地名です。みなさんはこの地名が読めるでしょうか。
嵐山電鉄の駅にもなっている地名ですから、これが読める人は京都在住の人なのではないでしょうか。
読み方は「かたびらのつじ」、京都市の右京区に位置しています。
帷子ノ辻は、嵯峨天皇の皇后である檀林皇后の葬送の際に、棺桶を覆った「帷子」の衣が風で落ちてしまったことが由来とされています。
檀林皇后について軽く紹介しおきます。
京都で色々な跡地を巡っていると、その足跡によく登場するのが、この檀林皇后という人です。
京都で有名な皇后には、壇林皇后の他に、祇園祭の占出山、大船鉾、船鉾などのご神体になっている「神功皇后」がいますね。
檀林皇后は、お寺で修行をしている僧侶が心を動かされるほどの美貌の持ち主だったと言われています。
また、彼女は強い宗教観を持っていたと伝えられており、「この世には永遠不滅なものはなく執着すべきではない」ということを説いていたそうです。
「無常」を根源にすえた、まさに仏教といった考え方ですね。
そういった教えを人々に伝えるがために、自らの亡骸で飢えた動物たちを救うことを願ったそうです。
「私の死後、亡骸は埋葬せず放置し、動物に食い荒らされ無残な姿になろうとも哀れと思うな」という遺言を残したといいます。想像以上の宗教観の持ち主だったということですね。
檀林皇后の遺言は守られ、化野へ向かう道の途中の辻に、彼女の亡骸は放置されていきました。その亡骸を放置した辻を「帷子ノ辻」と呼ぶようになったのです。
帷子とは死装束の事を指しており、前述のように帷子が葬送の途中で辻に落ちたことも由来に関係しています。
エピソードを読むと、なんとも切ないような由来の地名であることが分かりますね。
平安時代の当時、右京区と中京区の境目付近の地域は魔界で、三途の川の河原だったと考えられていました。
その理由は、鴨川と桂川の合流地点である賽 = 西院(さい)の河原から来ています。
「賽」というのは、親より先に亡くなってしまった子どもが親不孝の罰として積む石のことをいいます。
賽を何度積んでも、鬼がそれを崩しに来てしまうため、親不孝で亡くなった子ども達は永遠に賽を積むことになるのです。
西院は現在は「さいいん」という読み方が当たり前ですが、一昔前は「さい」と読まれていたのも、こういった理由があるのです。
西院エリアの近くにある高山寺には、「西院(さい)之河原旧跡」という石碑が見られます。
足利義政の妻である日野富子は、西院之河原旧跡の石碑に祈願して義尚を産んだと伝えられています。
余談ですが、賽を積んでいる子どもたちの邪魔をする鬼から、子どもたちを救ったのが高山寺のお地蔵様であったという伝説から、お地蔵様の子供守護信仰が生まれた、と言い伝えられています。

こちらも京都の京都市にある地名です。
平安時代の末期に、北面の武士だった遠藤盛遠は、渡辺渡の妻である袈裟御前と許されざれる恋に落ちてしまいます。
盛遠の気持ちを察した袈裟御前は、「夫である渡辺渡を殺してほしい」と話を持ちかけます。ところが、袈裟御前はどういうわけか、夫の身代わりとなって盛遠に首を打たれてしまうのです。
ん?どういうこと?
って思いますよね。私にもよくわかりません。
おそらく、夫を殺すよう盛遠にお願いした後で、やっぱり夫である渡辺渡が大切であることに気づいた、といった感じでしょう。
盛遠は、間違って討ち取ってしまった袈裟御前の首を近くの池で洗いました。
その時、首から滴る大量の血で池の水が真っ赤になってしまったのです。
それが、池が「赤池」と名づけられた由来です。
余談ですが、愛した袈裟御前の首を間違って斬ってしまった盛遠は、その後に人生の無常を悟り、出家をしました。
文覚上人となって袈裟御前の菩薩を弔い、後に神護寺復興など、真言宗の中興に人生をささげたそうです。
さて、京都シリーズも残り2つです。
下京区という所に、「天使突抜」という名前が入った通りがあります。
この由来を見ていくことにしましょう。
西洞院通松原という場所を下ったところに、「五条天神宮」という神宮があります。
五条天神宮祭神は、「天使様」と称されており、創建当初は「天使の宮」と呼ばれていました。
戦国時代が終わると、豊臣秀吉の都市改造計画によって、その天使の宮を鎮めるための「鎮守の森」を南北に貫通する道が作られたのです。
この時秀吉は、碁盤の目の京都の通りの間に、南北に一直線に通っている道を作りました。
その道によって、東西南北の道に面していない区画をなくし、短冊形の町割りにして商業を発展させることに成功したのです。
ただこの南北に直通する道によって、天使の宮は2つに分断される形になってしまいました
このように、「天使の宮を分かつように突き抜けている通り」という意味で、その通りを「天使突抜通り」と呼ぶようになったのです。
「死」とか何か不吉なこととかが絡んでいるわけではないので、割と平和な由来だったのですね。
そして、その周辺地域は「天使突抜」と呼ばれるようになっていき、現在に至るというわけです。
さて、京都編もいよいよラスト、祇園商店街の北側にある「縄手通り」を紹介します。
ちなみに、祇園商店街の南側は「大和大路通り」と呼ばれており、別物として扱われています。
縄手通りは京都の三条と四条の間にある通りで、通りの周辺は「三条河原」という区域になっています。
その三条河原という区域は、かつての斬首場だったのです。
斬首場というのは、罪人が首を斬られてさらされる場所のことです。
三条河原は人がよく行き交う地域で、罪人の首が斬られる様を、そういった大衆の目にさらすことで、その残忍な有様をさらす絶好の場所だったというわけですね。
縄手通りは、斬首刑が執行される前の罪人を、手に縄をかけて連行する時に通っていた道だったのです。
それが名前の由来となっています。
現在はそういった名残は一切なく、オシャレな店で埋め尽くされています。
共通していることといえば、人がたくさん行き交っている、という事くらいですね。
さて、このように京都の洛中地域には、なかなか由来が深い地名が存在いるのです。
ここからは京都を脱出して、全国各地の恐怖の地名を紹介します。

首切峠(くびきりとうげ)は、香川県仲多度郡まんのう町と綾歌郡綾川町境にある峠です。
また、同名の峠が岡山県にも存在しています。
戦国時代の天正7年11月26日、造田備中守宗俊の守る造田城が長宗我部元親に攻められ、造田側は軍勢の差が大きく守りきれず、ほとんどの家来は討死し、造田備中守は城に火をかけ自害しました。
生き残った家来も損傷が激しく、その様が非常に哀れであったためこの場所で首を切ったことから、首切峠と呼ばれるようになった、ということです。
戦に敗れた武士たちが、首を斬って自害していた場所が、この首切峠だったというわけです。
黒血川は、愛知県の関ケ原町を流れている川です。
672年の壬申の乱で、黒血川の周辺の山中では、両軍の衝突が起きました。
7月の初め、大友軍は精兵を放って、玉倉部邑を経て大海人軍の側面から攻撃する強襲戦法に出ました。
しかし、大海人軍はそれを撃退し、その後に「不破道」という場所を通って近江へと出撃していったのです。
この激戦で、両軍の兵士の流血が川底の岩石を黒く染めたことから、「黒血川」という名前がつき、その時の様子を現在に伝えています。
黒血川は、青野ヶ原の戦い・関ヶ原の戦いなど、古来の軍事上でたびたび利用されたそうです。
死人沢は、宮城県加美町にある河川で、その西側に面剥沢が位置しています。
江花高士山地内、小松沢の奥にある小さな沢が「死人沢」。その西南下方丘の蔭の小さな沢が「面剥沢」と呼ばれています。
昔、久保屋敷という屋敷に怠け者で性悪く、貧困で人の交際もなく、 淋しく暮す農家がいました。
ある年の秋、一人の僧(ろくぶ)が托鉢して村を廻り、日が暮れて、一夜の宿をそのよからぬ家に求めたのです。
その後、村人は憎が村から出て行った姿を見たものがいない、という風に噂し始めます。
そのうちに、火打山の沢に死体があること がわかり、村役人より取片づけを命じられた村の当番たちは死体を取り調べたところ、焼火箸で刺し殺され、小松沢の奥でだれとも面相の判らないように、面の皮を剥ぎ、隣の沢に棄てたのだろうということになったのです。
その後、一方の沢を面剥沢といい、棄てた沢を死人沢と呼ぶようになった、というのが地名の由来です。
死人片付けの当番の中に一夜の宿を貸した百姓も入っており、また、おれの手にかかるかと思わずつぶやくほどだったといいます。
これを聞いた村人たちは、責めるにおちず、語るにおちたと、諺の通りであったことを語り 伝えているのです。

岩手県の一関市のあるところに、「鬼死骸村」という村があります。
その地名の由来について、「復刻 真瀧村誌」には次のように記載があります。
西暦801年に坂上田村麻呂が「大武丸」という武将を倒したのです。
その「大武丸」というのは、坂上田村麻呂が陸奥国に攻め入ったときに果敢に抵抗して戦った蝦夷の豪族の1人で、その人を「鬼」という風に見立てて、「鬼死骸」と名づけられたのです。
ちなみに、戦いに勝利したのは坂上田村麻呂でした。
鬼死骸村には、討ち取られた大武丸の亡骸が埋められているとのことです。
女鬼トンネルは三重県の伊勢自動車道の近くにあったトンネルの名前です。
「あった」と言ったのは、女鬼トンネルは現在使用されていない、いわゆる旧トンネルだからです。
女鬼トンネルは心霊スポットとして有名で、グーグルで画像検索すると、いかにも心霊スポットらしい写真ばかりヒットします。
個人的に幽霊は信じていませんが、思わずゾっとしてしまうほどでした。
この「女鬼」という名前の由来にはいくつかの説があるので紹介します。
1つ目の説です。
トンネル周辺の地区は、昔お伊勢参りに行く時の難所で、峠には鬼が住んでおり、通りかかる人を食い殺していたといいます。
次第に鬼に食い殺された女性の霊がよく見かけられる様になったころから、「女鬼」という地名になったという説です。
2つ目の説です。
峠の近くに女性の罪人専用の処刑場があり、そこで処刑された女性の霊がたびたび目撃されたといいます。
ちなみに昔の「鬼」という言葉は、今の鬼のように赤色で角がある大男のイメージではありませんでした。
この世に存在しない全ての怪物を指す言葉だったのです。
そこから、女性の霊がよく出る場所が「女鬼」と呼ばれるようになった、という説です。
3つ目の説です。
昔、峠にトンネルを作ろうとしたのですが工事が難航し、村の女性を何人か人柱としてトンネルに生き埋めにしてしまったのです。
しばらくして工事を再開するためにトンネルを掘り起こしてみると、1人の老婆が生き残っていたのです。
老婆は他の女性を食べて生き抜いており、その見た目は人間とは思えないような形相だったといいます。
そこから、その老婆を鬼と見立てて「女鬼」という地名になった、という説でした。
血吸川とは、岡山県の総社市にある川の1つです。
川の名前の由来は桃太郎伝説の起源とも言われる「温羅伝説」という話によります。
血吸川の周辺には、「矢喰神社」と「鯉喰神社」という地名もあり、これらの由来も血吸川と一緒です。
吉備津彦命という伝説上の登場人物が、山上の岩城へこもった温羅という鬼を退治しようと矢を放つのですが、その矢は温羅が放った矢とぶつかり合って落とされてしまいます。
そこで吉備津彦命は二本同時に矢を放ちました。すると一本はこれまでと同様に相手の矢とぶつかってしまうのですが、もう一本は見事に温羅の左肩へ突き刺さったのです。
傷ついた温羅はキジへ姿を変えて逃走を始めました。
この時に温羅から流れた血が川となり、鷹になって追いかけてきた吉備津彦命から逃れるために鯉へ姿を変えてその川を泳いで逃げました。
しかしやがて捕まり、温羅は最後には首を落とされてしまったのでした。
この伝説から、温羅の城あたりから流れる川を血吸川、そしてその川と足守川が合流して少しのところ、鯉となっていた温羅が捕まった場所が鯉喰神社、二者が放った矢がぶつかり合ったとされる場所が矢喰神社と呼ばれるようになったのです。
「姨捨」とは、長野県にある地名であり、「姨捨て山」などの名前につながっています。
楠山正雄の説話である「姨捨山」や、深沢七郎の小説「楢山節考」は、その地域の伝説をもとにしたものです。
さかのぼると、950年頃の「大和物語」や、1060年頃の「今昔物語」には同じような伝説がのっていることを確認することができます。
姨捨の「姨(おば)」には、老いた母や老婆という意味を含んでいるわけではなく、母の姉妹、妻の姉妹、めかけ、父の側室などの意味があります。
信州の「姨捨」では、母を早くして亡くした男が、殿様の命令を受けて、親代わりに育ててくれた老いた伯母を捨てる話となっています。
しかし、姨捨の伝説は、伯母を山に捨てたところで話は終わりません。
男が伯母を捨てたとき、山は真っ暗になってしまっており、家に帰ることができなかったのです。
ぐるぐると山を歩くうちに、結局伯母を捨てた場所に戻ってきてしまいました。
息子の姿を見た母親としての伯母はしずかに言いました。「こんなこともあろうかと、途中で枝を折ってきた。それを目印にしてお帰りなさい」と。
そのやさしい心に動かされた男は、殿様の命令に逆らって伯母を家に連れて帰るのでした。
「姨捨」という地名は、一見伯母を捨てていた場所だからついた名前に見えますが、実はそういった心温まるような話も孕んでいたのです。

人喰谷(ひとくいだに)は富山県南砺市にある谷です。
高落場山が源流となっており、小矢部川水系二ッ屋川の支流の1つです。
谷は五箇山トンネル付近にある峡谷として存在し、人喰谷の上流側は中部北陸自然歩道になっています。
谷の周囲は落葉樹林が多く自生し、また美しい峡谷があることから紅葉スポットとして有名です。月長石(ムーンストーン)という青白い結晶を含む鑑賞石が採れることでも知られています。
それでは、どうして「人喰谷」という恐ろしい名前になってしまったのでしょうか。
その由来を説明します。
冬に生活物資が不足すると、「ボッカ」と言われている人たちが、雪の中に峠を超えて平野まで行き、物資を運び出していました。
しかし峠付近の谷は雪崩が多く、荷物を運んでいた人はたびたびその雪崩に飲まれ、その後見つかることはなかったといいます。
そういった跡形もなく人が死んでしまう様を、雪崩に「喰われた」という風に喩えることで、そこの谷は「人喰谷」という風に名づけられたのです。
「神呪」というのは、様々な場所で見られます。
人の苗字だったり、地名だったり…兵庫県の西宮市だけでなく、関東地方や中国地方でも見られる地名です。
一見かなり怖い由来の地名なのではないか、と考えてしまいますよね。
「神のような強靭な力をもった何者からの呪いをかけられた」と、推測できてしまいます。
しかし、実際には「神呪寺」という立派な寺が由来となっています。
そこの「神呪」というのは、「神様が与えてくれるご利益のある呪文」を省略したものとなっています。
つまり、「神呪」というのは恐怖するよりもむしろ有難い単語だったのです。
奈良県で最も栄えている所である橿原市に、「耳成 (みみなし)」という地名があります。
これもなんだか訳アリのような名前ですよね。
紹介してきた地名の流れだと、「何か悪いことをした人に、罰として耳をとったからそういう地名になったのでは」など考えてしまいますね。
「耳成」の語源は「耳成山」という山から来ています。
その山は、キレイな上三角形をしており、昔の人は「この山はまるで耳の形を成しているようだな」という風に考え、「耳(を)成(している)山」という風に名づけたというわけです。
ちなみに昔の「耳」というのは、現在のように人間の耳を指しているわけではなく、「織物や紙・食パンなどのふち・へり」を意味していました。
このように「耳成」は、耳がとられたなどの恐ろしい由来ではなく、その地域のある山が「耳」の形をしていたから、というだけの由来なのです。
岩手県の一関市のとある場所に「骨寺村」という名前の村があります。
その村にある絵図には「骨寺跡」「骨寺堂跡」という文字と、建物の礎石のような図像が描かれています。
かつてそこにあったのは「骨寺」という寺で、鎌倉時代の後期には廃寺となってしまった村です。
骨寺では当時、亡くなった人の骨の一部を特定の聖地に納める風習である「分骨」という儀式が行われていました。
一説によると、骨寺は地元の亡くなった人に対して「分骨」を執り行っていた場所なのではないか、といわれています。
骨寺村の地面を掘り起こすと、もしかしたら遺骨が出てくるかもしれませんね。
福島県二本松市にある「黒塚」という名前の場所は、鬼婆の墓とされています。
伝わる伝説によると、鬼婆は「安達ケ原」という場所に棲み、人を喰らっていたといいます。
726年に、紀州の僧である東光坊祐慶が安達ケ原を旅している途中に二がクレ、一見の岩屋に宿を求めました。
そこには一人の老婆が住んでいました。
僧を親切そうに招き入れた老婆は、「薪が足りなくなったのでこれから取りに行く」といい、奥の部屋を絶対に見てはいけない、と祐慶に言いつけて岩屋から出ていきました。
しかし祐慶は好奇心から戸を開けて奥の部屋をのぞいてしまいます。
そこにはなんと、人間の白骨死体が大量に積み上げられていたのです。
その時祐慶は安達ケ原で旅人を殺して血肉を喰らうという鬼婆の噂を思い出し、岩屋に住んでいた老婆こそがその鬼婆だときづいたのでした。
そういった畏怖の念をこめて、その地には「黒塚」と名づけられたというわけです。

渋沢栄一が生まれた場所である「血洗島」には、その地名の由来に恐ろしい伝説が関係しています。
1つ目の説です。
深谷市の北側を流れる利根川には大きな中州がたくさんあって、当時の北条氏と上杉氏の激戦で多くの兵士の血が流れ、兵士たちは血まみれの剣をその地域の州で洗ったことから「血洗島」と呼ばれるようになった説です。
2つ目の説です。
利根川が毎年氾濫し、その地域の地面は常に荒れていました。
「地荒れ」→「ちあれ」→「血洗れ」という風に変化していった、という説です。
個人的には前者の説がかなり有力かな、と思います。
青森県の弘前市に「取上」という名前の地名があります。
その地名の由来には、
・昔そこに刑場があったことから、首を取り上げるという意味で取上という名前になった
・そこには産婆さんたちが多く存在しており、赤子を(産まれたときにはじめに)取り上げるという意味で取上になった
といった説があります。
上だとちょっと不吉で住みたくなくなるような由来ですよね。
しかしそれらの説には全く証拠となる文献が存在していません。
最も有力であり文献もある説は、かつてもともと存在した地名の「大字取上」という名前が変化していった、という説です。
宮城県の大崎市にある「鬼首(おにこうべ)」という地名があります。
坂上田村麻呂が蝦夷経営の時、蝦夷首領の大武丸を斬ったときに、その首がその地に落ちたので鬼の首という意味で鬼首と呼んだという伝説があります。
しかし、鬼首は本来、「鬼切部(おにきりべ)」と呼ばれていたもののなまりと思われます。
鬼切部というのは、平安後期奥六部の安倍頼時と陸奥太守藤原登任の大戦があった古戦場です。
その安倍館と称するものが鬼切辺館あるいは鬼城と呼ばれ、古塁跡を残しています。
北海道のとある海沿いに「百人浜」という浜があります。
1816年(文化13年)南部藩の御用船が難破しました。
乗員100人が犠牲になり、その多くがこの浜に打ち上げられたことから名付けられたというのが、由来になっているという説があります。
まるで心霊スポットばりの逸話なのですが、それを裏付けるかのように、江戸時代に建立された立派な供養塔も建っています。
ちなみに、実際の百人浜はいい雰囲気の観光地で、美しい弓なりの浜と緑化事業の観察展望が百人浜スポットの見どころとなっています。
最後に紹介するのは、千葉県流山市にある「飛地山」です。
この場所は「飛血山」という風に呼ばれ、心霊スポットとしても有名です。
心霊スポットとして知られるだけあって、飛地山に関してはネット上で様々な噂が出回っています。
明治時代にその地域は刑場で、その時の処刑で血が飛んでいたから「飛血山」→「飛地山」という風になったという噂が有名です。
また、その場所で人骨を見たという話も一部では広まっていたそうです。
これが本当ならかなり怖く、霊が出るのも納得できます。
しかし、飛地山へのマンション建設マエに行われる埋蔵文化財などの調査では、住居跡しか発見されておらず、人骨は出ていないし、過去に処刑場だったという記録も全くない、という結果が出ています。
実際の由来に関しても、田中藩の飛び地領(田中藩の本拠地を離れた場所に持っている領地)を管理する役所があったため「飛地山」と呼ばれたのが本来の由来で、幕末には既にそう呼ばれていたというのが真実のようです。
また、飛地山は新選組とゆかりのある場所であるため、「近藤勇が処刑された刑場だった」というデマも出回っているそうです。
しかし、板橋で斬首されたのが歴史的な事実なので、ネットの人たちの身も蓋もない噂だったというのがオチのようです。
色々と物騒な由来の地名を紹介してきました。いかがでしたでしょうか。
以下の記事では、こういった怖い由来をもった地名ではなくて、その他の面白い由来の地名を紹介していきます。ぜひ合わせてご覧ください。
なお、お勉強の事でお困りごとがありましたら、是非私たち家庭教師にもご相談ください!また、家庭教師の仲間も募集中です。ご興味のある方は下記リンクより是非ご検討ください。
現役医学部生ライター O
家庭教師ファーストの登録家庭教師。秋田大学 医学部医学科在籍。家庭教師だけでなく塾講師の経験もアリ。