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家庭教師ファースト教育コラム社会・歴史の雑学

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【日本史ミステリー】日本は本当に「鎖国」していたのか?を現役京大生が解説

  • 社会・歴史の雑学
  • 現役京大生ライター S.T

「日本は江戸時代、徳川幕府の下で『鎖国』をおこない、外国との関わりを絶っていた。そうした閉鎖的な環境にあったため、幕末に黒船が来航し、西洋各国の軍事力、経済力に圧倒され、それに恐れおののいた幕府は開国を余儀なくされた。」という記述は少なからず目にしたことがあると思います。

そのため、多くの人が「江戸時代は全く外国との関わりはなかったのだ」と思い込んでしまっているのではないでしょうか?しかし、歴史を正しく学べば、もう少し正しく幕府の対外政策について理解することができるはずです。本論がその理解の一助になることを祈っています。

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プロローグ:そもそも鎖国とは?

そもそも鎖国とは?

そもそも鎖国という言葉はどのように生まれ、使われ始めたのでしょうか。山川出版社の『詳説日本史』には以下のように記述があります。

「ドイツ人医師のケンペルがその著書『日本誌』で、日本は長崎を通してオランダとのみ交渉を持ち、閉ざされた状態であることを指摘した。1801年(享和元)年『日本誌』を和訳した元オランダ通詞志筑忠雄は、これを『鎖国論』と題した。鎖国という語は、以後、今日まで用いられることになった」。(山川出版社『詳説日本史』より引用)

つまり、鎖国という語は昔からあった言葉というよりかは、この江戸時代の対外政策を定義するためにつかわれた語のことで、まさしく「国を鎖す」状態のことを指し示す言葉なのです。

冒頭で述べたように、今日、鎖国という言葉は、否定的な意味でつかわれることが大半です。しかし、ケンペルは幕府の鎖国政策を肯定的に評価しました。つまり、日本は島国であり、独自の優れた文化、経済を作り出しているのであり、その状況において、わざわざ侵略、戦争のリスクを冒してまで外国との交易をおこなう必要はないとの論を展開しているのです。グローバル化、国際交流などが訴えられている今日ではなかなか理解が難しい考えではあるとは思いますが、外国との関わりを絶つことで、国を安定させる、というのは動乱の時代においては一つの考え方なのかもしれませんね。

鎖国はいかにしてつくられたのか?

戦国時代の対外政策編

戦国時代の対外政策編

では、徳川幕府の「鎖国」(ここでは、実際に国を鎖していたという意味ではなく、この当時の対外政策を鎖国政策と呼ぶこととします)政策はどのような意図があって、そしてどのようにして実施されたのか見ていくことにしましょう。

時は徳川幕府成立以前、戦国時代にまでさかのぼります。この当時、ヨーロッパではいわゆる大航海時代に突入していました。

そんななか、島国日本にも初めてヨーロッパ人がやってくることになります。1543年、種子島にやってきたポルトガル人です。彼らは、日本にあるものをもたらします。それが鉄砲です。当時、矢や槍、馬を使った騎馬隊などを使って戦っていた戦国武将にとって、この強力な武器を使用したいのは明らかです。鉄砲はあっという間に広がり、これ以来多くのポルトガル人、さらにはスペイン人が来航するようになり、日本と貿易を行うようになりました。

当時、日本人が彼らを南蛮人と呼んでいたことからこうした貿易のことを南蛮貿易と呼びます。南蛮貿易では先述した鉄砲やそれに用いる火薬、そして生糸などがもたらされましたが、それに加えてもう一つ重要なものが日本に伝来しました。それがキリスト教です。キリスト教は、伝来するや否や、九州地方や近畿地方で支持されました。中には、洗礼を受ける大名まで現れました。(キリシタン大名)このように、戦国時代では、外国人、特に南蛮人とのつながりは非常に密なものだったのです。

※大航海時代…15世紀から17世紀中ごろまで続く、ポルトガルやスペインを筆頭にヨーロッパ各国が新大陸を目指して勢力を拡大しようとする動き。目的としては、貿易の利益拡大や同時期に展開されたルネサンス運動によって窮地に立たされたカトリック教会によるキリスト教会の布教活動などが挙げられる。

安土・桃山時代の対外政策編

安土・桃山時代の対外政策編

次に、織田信長、豊臣秀吉が行った対外政策について考えていこうと思います。

織田信長は比叡山延暦寺の焼き討ちなど、宗教勢力としばしば対立している印象をもたれることが多いのではないでしょうか。では織田信長とキリスト教、そして南蛮人との関係性はどのようなものだったのでしょうか。結論から述べると、信長は西洋の革新的な物品には興味を示していたものの、キリスト教とは利害が一致するところにおいて、協力関係にあった、と考えることができます。信長はイエズス会からの贈り物を受け取り、その先進性を受け入れていたといいます。地球儀を贈呈されて、地球が丸いことに納得していた、という逸話もあります。また彼は安土にイエズス会の屋敷を建てることを認め、イエズス会とは懇意にしていたことが伺えます。

しかし、あるキリシタン大名を従属させるためにイエズス会を利用しようとした信長は、イエズス会に脅しをかけ、「この頼みに応じなければ、キリスト教を断絶させる」と、自らの利益になるようにイエズス会に脅しをかけていたといいます。このように信長とイエズス会(南蛮人)はお互い持ちつ持たれつのような互いに利用しあう関係にありました。

一方豊臣秀吉はどうだったのでしょうか。彼は当初信長の意思を引き継ぎ、キリスト教布教について制限を加えることはありませんでした。しかしのちに、キリスト教の団結力、そしてそれが起こす反乱を恐れた秀吉は1587年にバテレン追放令を発出しました。その一方で、彼は南蛮貿易がもたらす利益にも期待していました。つまり、「キリスト教の普及は制限しつつ、でも貿易は行う」という良いとこ取りをしようとしました。しかし、そんなことがうまくいくはずもなく、キリスト教禁教はうやむやに終わってしまいました。

江戸時代初期の対外政策編

江戸時代初期の対外政策編

織田、豊臣政権が終焉した後、徳川家康は自らの権力を高めるのみならず、早めに二代目将軍徳川秀忠に政権を委譲したことで、徳川「幕府」としての政権機構を安定化させました。そんな徳川家康をはじめとする江戸幕府はどのような対外政策をとっていたのでしょうか。

幕府ははじめ、積極果敢に外国との貿易を行っており、それに伴って、キリスト教も黙認していました。このころになると、カトリックの国のみならず、オランダやイギリスといったプロテスタント(新教)の国々も日本に訪れるようになり、外交・貿易の顧問として幕府に協力するようになったり、肥前(現在の佐賀県)の平戸に貿易をするための商館を開いたりと、幕府と友好的な関係を築いていました。日本人の海外進出も積極的に続いていきました。

幕府は彼らに朱印状と呼ばれる、海外渡航を許可する許可証を与え、それをもって商人たちは海外各国との貿易を行いました。この朱印状を携えた貿易船を朱印船と言い。こうした貿易を朱印船貿易と言いました。こうした貿易が盛んになっていくと、海外渡航を射て現地で富を築く日本人も現れ、東南アジア各国に日本町を作り、そこで自治制を敷くことで彼ら自身のコミュニティを建設し、生活するようになりました。その中には山田長政のように、現地で非常に力を持つ日本人も現れました。

※山田長政…山田長政は駿河国(現在の静岡県)に生まれ、23歳の時にシャム(現在のタイ(ちなみにこの国名は1939年というごく最近まで用いられていました))に渡りました。貿易、そして軍師としての才覚があった長政は、貿易を通じて日本とシャムの親交を深めるのにも一役買いました。このような貿易を通じてシャム王国に莫大な利益をもたらしていた長政は、次第に王室からも信頼を得るようになります。それに加え、スペイン艦隊がシャムに攻め込んだ際には、傭兵たちを率いてこれを撃退しました。こうした、貿易、そして軍事両面の面からシャムに貢献したことから、長政はシャム国王から全幅の信頼を得るようになり、王朝における最高位の地位にまで昇進しました。さらにはシャムの配下の国の国王にまで昇進し、シャム国内で有力な権力者となっていきました。元は、駿河の国の染物屋の子どもだったといわれている長政が異国の地で国王にまで上り詰めるというシンデレラストーリー、現代でもなかなか類を見ないものなのではないでしょうか?

朱印船貿易後、鎖国政策へ~キリスト教編~

朱印船貿易後、鎖国政策へ~キリスト教編~

幕藩体制が固まっていくにつれて、幕府は諸外国との交易を制限するようになりました。その理由としては、まずキリスト禁教政策をとろうとしたことです。豊臣秀吉がそうだったように、宗教の結束力というのは、幕府や権力者にとって非常に脅威となるものです。さらに、キリスト教の布教を通じて、スペインやポルトガルの侵略を招く可能性も考えられます。そうしたことから、幕府は自らの政権をより安定化させるために、キリスト教の信仰の制限に走りました。1612年幕府は幕府が直接支配する幕府直轄領に禁教令を出しました。その翌年、この直轄領に出ていた禁教令を全国に拡大し、キリスト教信者に改宗(信仰する宗教を変更すること)を強いました。

この禁教令により、長崎や京都などにあったキリスト教会は破壊され、宣教師や、キリスト教からの改宗をする気がない者を国外に追放しました。この中には高山右近というキリシタン大名として有名だった大名も含まれており、高山右近ら300人をマニラやマカオといった国外に追放するなど、大胆な追放政策がとられました。

このように、キリシタン(キリスト教信者)に対する圧力が強まる中、秘密裏に日本に潜入していた宣教師を幕府が発見したことをきっかけに幕府がキリスト教への不信感を募らせ、長崎において55名を大量に処刑する元和の大殉教という事件が起こりました。これを筆頭に全国各地でキリシタンの大弾圧が行われました。

こうしたキリスト教弾圧の運動に決定的な影響を与える出来事が1637年に起こります。それが九州天草地方で起こった島原の乱です。この乱は、飢饉が起こった中で過酷な徴税を行い、そしてキリスト教徒への弾圧を行った領主への一揆として発生しました。かつて九州地方にキリシタン大名が多かったことは先述の通りですが、そうした影響もあり、この地域ではキリスト教徒が非常に多く存在していました。彼らは天草四郎時貞という人物を首領として3万人余りで決起しました。これに対して幕府は九州の諸大名ら約12万人(およそ4倍!)を動員し、これを鎮圧しました。この乱以後、幕府はキリスト教徒根絶に動き出し、踏み絵(キリスト教徒ではないことを証明するために、キリスト、聖母マリアの絵を踏ませること)を強化し、その他禁教のための諸政策を実施し、キリスト教に対し、厳しい監視を行いました。

朱印船貿易後、鎖国政策へ~貿易編~

豊臣政権下ではキリスト教禁教政策には力をいれつつ、それでも南蛮貿易には力を入れる、というのが日本の海外との付き合い方でした。それでは、江戸幕府ではどのように諸外国と交易をおこなっていたのでしょうか。先ほど触れたように、日本はこのころ(1600年代初頭)にはスペイン、ポルトガルのみならず、オランダやイギリスといったカトリック諸国(紅毛人)とも交易をおこなっていました。こうした中で、幕府は貿易にかかわる人間が利益を独占して力をつけていくことを恐れました。こうした貿易は主に西国で行われていた為に、西国の大名や商人が利益を独占し、その地域で強い実力を持ち、幕府に対して盾突くようなことを恐れたのです。その為、幕府は次第に貿易の利益を独占し、貿易を統制しようとしました。これが二つ目の鎖国の理由です。

以下の表1には17世紀前半の江戸幕府対外政策のまとめがされています。

当初は禁教令や、外国船の来航地の制限、糸割符制度などで諸制限を加えつつ、貿易を続けようという幕府の意図が見えています。しかし、次第に幕府はその制限の色を強めていき、スペイン、ポルトガル船の来航を禁止したり、日本人の日本からの出入国を禁止したりと、次第に外国との民間レベルでの関わり合いを禁止するようになりました。一般的には1641年、オランダ商館を長崎の出島に移し、オランダ人と日本人の自由な交易を禁止したことで「鎖国」の完成であるといわれています。

糸割符制度…全国数か所の特定の商人らに糸割符仲間というものを作らせ、彼らが毎年生糸の値段を決定し、その価格で生糸を一括購入してこれを分配する制度。これにより生糸により生まれる利益を幕府の管理下におくことができた。  

奉書船…朱印船のように幕府からの貿易許可書のようなもの。

鎖国下での貿易

ここでようやく本題にはいります。ここまで鎖国に入るまでの過程を外国との関係性や、キリスト教とのつながりも踏まえて考えてきました。ここからは、鎖国下での外国とのつながりがどのようになされていたのか、について考えていきたいと思います。

一言で述べると、幕府は四つの窓口を通じて諸国との関係性を持ちました。長崎、対馬、薩摩、松前の四つです。以下では、具体的にどの場所でどのような国と関係を保っていたのか、ということを考えていきます。

鎖国下での貿易-長崎

まずは長崎です。長崎ではオランダと清との交易、交流が行われました。清は同じ東アジアの国のため、関係を持っているのは理解しやすいと思います。しかし、オランダ…?しっかりヨーロッパの国だし、キリスト教の国でもあるのにどうして関係が保たれているの?と思われる方も多いのではないでしょうか?その理由はやはりキリスト教にあります。ここからは若干世界史チックになりますが、カトリック(=旧教)に対して、プロテスタント(=新教)が勃興し、人気を集めたというのが宗教改革です。そこでカトリック系の国々は航路の発達もあり、日本を含めた新たな地にカトリックを広め、その信者を獲得してくことで再興を図る、という側面もありました。

それに対してプロテスタントは、ヨーロッパでも人気の新教であり、そこまで信者の獲得に熱心ではないと言えます。先述した様に、オランダはプロテスタント国です。オランダは、他の国と違い、日本への来航を布教ではなく、貿易を目的としたものである、と約束することができ、それを認められた為に子の鎖国下においても日本との交流を持つことができたのです。(ちなみに、イギリスもカトリックの国ではない為、幕府から特段貿易を禁止されていたこともなく、自主的に撤退しまいました。(もし、この時イギリスが撤退していなければ、のちに日本の開国に深くかかわることもなく、幕末の流れももしかすると変化していたかもしれませんね。)

このように、オランダとの交流を持てたことは幕府にとっては非常に大きいことでした。というのも幕府はオランダから織物類や砂糖などを入手していましたが、それに加えて「オランダ風説書」という書物も提出させていたからです。これはほぼ年に一回のペースで、現代でいうニュースをまとめて提出するもので、のちにアヘン戦争や、ヨーロッパでの情勢などが記されている文章です。(もちろん、オランダに不利な、都合の悪いものを記されていなかったようですが。)ちなみにオランダ風説書は、黒船が来航する一年前にその到来を予告しており、黒船来航は実はサプライズではなかった、という事実もあるようです。

一方、長崎でのもう一つの取引相手、清とはどのような取引をしていたのでしょうか。清からは主に生糸を輸入していました。それに対し、日本は銀や銅などを輸出しました。清国人の居住地も唐人屋敷に制限されていましたが、出島で制限を受けているオランダ人と比べるとある程度自由に行動することができていました。

鎖国下での貿易-薩摩

薩摩藩(現在の鹿児島県)では、琉球王国(現在の沖縄県)との交流が行われていました。交流というよりは、薩摩藩が実質征服、支配していました。その上で、あくまで王国という立場は保ちつつ、中国(明のちに清)との関係も持続させました。そうすることで琉球産の黒砂糖や中国の産物も手に入れることができました。また琉球からは謝恩使(琉球国王の代替わりごとにその就任を感謝する)と慶賀使(徳川将軍の代替わりごとにそれを祝う)という使節が送られていました。こちらも外国からの使節、ということで非常に派手にもたなされていたそうです。

鎖国下での貿易-対馬

対馬は現在の長崎県にある島で、ちょうど朝鮮半島と日本列島の間にある島です。当時、対馬藩を治めていた宗氏は朝鮮との間に、己酉約条を結びました。これは、宗氏と朝鮮との間で結ばれた条約のことで朝鮮-日本間の貿易を対馬藩が独占することや使節や船の往来に関する取り決めなどを定めています。また、朝鮮からは朝鮮通信使と呼ばれる使節が、徳川将軍が交代するたびにそのお祝いとして来訪していました。彼らの来訪に際して幕府はその権威を示すために一回当たり100万両(江戸時代初期の価値でいうとおよそ1000億円!)もかかっていたとのことです。見栄っ張りですね。

鎖国下での貿易-松前

松前藩(現在の北海道、東北地方)では、蝦夷地(現在の北海道)との交易がおこなわれていました。ここでは当時現地に住んでいたアイヌの人々との交易がおこなわれていました。度々対立をおこすこともありました(シャクシャインの戦いなど)がそのなかでアイヌを屈服させ、その支配を強めていくようになりました。

ここで本題とは外れますが、江戸時代の各藩の支配機構を考えていきたいと思います。多くの藩では武士が農民から年貢という形で農民から徴税を行います。しかし、対馬藩や松前藩などでは、石高(その土地からどれくらいの米がとれるのかをその生産高によって表示する制度)が見込めず、そのため家臣に対する俸禄(給料)を与えることが難しいことがあります。そうした際に、この貿易による利益を家臣に分け与え、それによって支配機構を安定させる、ということがありました。このように対外との交易は、藩内の安定にも役立っていたのです。

日本は本当に「鎖国」をしていたのか?

さてここで本論の課題でもある、「日本は本当に『鎖国』をしていたのか」という問題について考えてみます。ここまで見てきたように、キリスト教は表向きには禁教が行われており、その点からすると外部との交流は立たれていたように思います。しかし、後半で述べたように鎖国政策中にも、長崎でオランダや清との交易がおこなわれていたり、さらには薩摩、松前を通じて当時の異国との交易がおこなわれていた点などから、あくまで貿易の場を制限した、ということができます。

先述した様に、幕府は「オランダ風説書」を通じて外国の情報を手に入れていました。つまり、幕府によって外国との交流が制限、独占されていた状態であるのではないでしょうか。さらに隠れキリシタンと呼ばれる、キリスト教を隠れて進行する人々がいたように、密貿易なども多少なりとも行われていました。このような点から、『鎖国(=完全に国を鎖した状態)』をしていたのか、という点については非常に疑問が残ります。

エピローグ

いかがだったでしょうか?江戸時代の対外政策の分野は、受験等でも出てくる、そして年号がややこしい、どこで起こった出来事なのかわかりづらいなど、苦手にしている人も多いのではないでしょうか。しかし、そこはあくまで人の物語です。それなりに因果関係があって、その出来事が起こっています。苦手だ、難しいと思ったらその文字面だけを追うのではなく、どのように物事が展開して、どうしてそうなったのか、その因果律を考えることで理解が深まるのではないでしょうか。そうした中でこの文章が理解の一助になることを祈っています。

なお、お勉強の事でお困りごとがありましたら、是非私たち家庭教師にもご相談ください!また、家庭教師の仲間も募集中です。ご興味のある方は下記リンクより是非ご検討ください。

この記事を書いたのは

現役京大生ライター S.T

家庭教師ファーストの登録家庭教師。京都大学 教育学部 教育科学科在籍。勉強することの楽しさを教えます!

著作・制作

家庭教師ファースト/株式会社エムズグラント

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