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家庭教師ファースト教育コラム社会・歴史の雑学

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明智光秀はなぜ裏切ったのか?「本能寺の変」について現役阪大生が解説

  • 社会・歴史の雑学
  • 現役阪大生ライターK

「本能寺の変」織田信長が明智光秀に謀反され、殺されてしまった戦国時代の大事件です。

おそらく一度は聞いたことがあったり、教科書で見たことがあると思います。しかし、本能寺の変について、あなたは詳しく知っていますか?事件後どのようなことがあったか知っていますか?そしてそもそも、明智光秀はなぜ織田信長を裏切ったのでしょうか?

この記事では、信長の人生を振り返った後、本能寺の変について詳しく解説し、さらに本能寺の変に関する豆知識や裏話を紹介していこうと思います。

なお、お勉強の事でお困りごとがありましたら、是非私たち家庭教師にもご相談ください!また、家庭教師の仲間も募集中です。ご興味のある方は下記リンクより是非ご検討ください。

織田信長の人生

織田信長の人生

まずは、本能寺の変よりも前、つまり織田信長の人生を簡単に振り返ってみましょう。

1534年、尾張国(現在の愛知県)にて、織田信秀の嫡男として信長は誕生しました。少年期から青年期にかけて、信長はおかしな行動を繰り返し、周囲からは「うつけ者」と呼ばれていました。

しかし、信長の真の優秀さがだんだんと表に現れてきます。決定的な出来事は、あなたもご存知でしょう「桶狭間の戦い」です。その当時、最も天下に近い男と言われた今川義元を、今川軍25000人に対して信長軍2000人で勝利しました。この戦いで信長の名はいたるところに轟きました。その後、美濃の斎藤氏を倒し、天守閣のある安土城を築きました。さらに、戦国最強の騎馬隊を持つ武田軍に、当時だれも考えもしなかった銃を使った戦闘を仕掛け、完全勝利します。この戦いを「長篠の戦い」といいます。

また、信長は城下町に楽市楽座令を出し、商業の自由化をしたり、関所を廃止することで、交通の便をよくしたりしました。このように、戦にも勝ち続け、政治の面でも優秀な才覚を発揮し、天下統一まであと一歩というところまできました。しかし、その後…

本能寺の変は何故起こったのか?

本能寺の変

いよいよ本能寺の変の話になります。ここまで順調に天下統一を目指して奮闘してきた織田信長。なぜ彼は戦場でもない本能寺で亡くなってしまったのでしょうか。見ていきましょう。

先程紹介した長篠の戦いの後、信長は武田軍のリーダー武田勝頼を天目山に追い詰め、自害させました。共に戦闘をした自分の息子である織田信忠はかなりの活躍をしたので、褒美を与えました。戦国最強とたたえられていた武田氏を破り、信忠という立派な跡継ぎの目処もつき、順風満帆な信長はその場で軍を現地解散し、富士山を眺めながら悠々と帰国しました。しかしまだまだ強い戦国大名はたくさんいます。天下統一のためにもさらなる領地拡大を狙わなければなりません。しかも仮に戦国武将たちを滅ぼしたとして、彼らは信長に従うかはわかりません。そのためには強い後ろ盾が必要です。

実は、長篠の戦い以前に足利義昭という人物を京に連れていき、室町幕府の将軍とさせてあげたのです。その際、足利義昭にの部下だった明智光秀と信長が初めて出会います。非常に優秀だった光秀はすぐに信長に認められ、信長の家臣となります。光秀は政治的な面でも活躍し、あの有名な豊臣秀吉以上に信長に信頼される人物になっていきます。

そして、1582年天目山の戦いから約2か月後、天下統一に向けて中国・四国地方を平定しようと考えます。そこで、その地方で有力な毛利氏と長曽我部氏を打ち倒そうと、三男の織田信孝を派遣します。それ以前の1577年にも豊臣秀吉に中国征伐を命じたりするなど、信長の有力な家臣たちは全国に散らばって戦いを繰り広げていました。そのため、当時の京にはほとんど戦力がいませんでした。しかしそんな中、ただ一人信長の近くにおり、すぐに行動できる人物がいました。それが近畿に軍事拠点を多数持っていた明智光秀です。光秀は虎視眈々と信長を討つチャンスを狙っていました。

とはいえ、自分の軍を勝手に動かそうものなら信長に謀反の疑いをかけられたり、ほかの有力な家臣に察知される可能性もありました。しかし、ここでビッグチャンスが訪れます。信長から光秀に中国(備中のこと)に遠征しろという命令が下ったのです。中国は当時、秀吉の軍勢が戦っていました。それの援軍として頼まれたのです。

とにかく、これで信長の近く、つまり京に光秀の軍勢を集める大義名分ができました。

本能寺の変~当日~

いよいよ本能寺の変当日がやってきました。

1582年6月2日、信長は天下統一が見えてきて油断したのか、ほとんど兵に護衛させずに本能寺に泊まり、遊びに遊んでいました。そこを狙ったのが明智光秀です。上記の通り、信長の有力な家臣たちは各地の征伐のために遠征をおこなっており、しかも、光秀の大量の軍勢が信長の周りに集結していました。まさに大チャンスです。

本能寺の周囲を光秀の軍13000人が囲みます。はじめは、信長や部下たちは下々の者たちのただの喧嘩だと思っていました。光秀軍の一人が鉄砲を打ち込んだことにより、ようやく「何者かの謀反だ」と気づいたのです。部下の森蘭丸から謀反したのが明智光秀だということを聞くと、「是非に及ばず。」と一言だけ発しました。諸説ありますが、この発言は、光秀の優秀さを考慮すると、本能寺から脱出して生き残るのは不可能だと覚悟したものであると言われています。

信長と部下たちは弓矢で対抗します。しかし、光秀軍13000人に比べ、信長軍は150人程度。この歴然とした差を埋めることは叶いませんでした。しばらく弓矢を撃っていると、弦が切れてしまいます。まだまだ戦おうとする信長は槍をもって対抗します。しかし、傷を受けてしまい、御殿の中に退却し、もうすでに光秀軍が放った火が迫っていました。

信長は、御殿の奥にこもり、戸を固く閉ざし、切腹しました。49歳でした。これにより、光秀の信長討伐は成功したのです。その時の光秀の心境はどのようなものだったのでしょうか。自分が天下統一できる!とうれしさでいっぱいだったかもしれません。後述のように度重なる恨みで信長を打ち倒してしまい、むなしいような気持ちだったのかもしれませんね。

本能寺の変 その後

本能寺の変 その後

ついに信長を打ち倒した明智光秀。信長の有力な家臣たちにこのことが伝わってしまっても、遠方で戦っているため、すぐには京に戻ってこられないと踏んでいました。

ここで、豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)の活躍です。本能寺の変で信長が命を落としたことを知った秀吉は、当時備中で高松城に水攻めを仕掛けていました。しかし、備中の武将である毛利輝元とすぐに講和し、秀吉軍20000人全軍を連れて京に向かいました。そのスピードはすさまじいもので、高松城から200㎞を10日間で移動したとされている、日本でも屈指の大移動でした。これを「中国大返し」といいます。また、光秀との戦いを「謀反によって亡くなった信長の仇を獲る、弔い合戦」だとして、大義名分を得ます。

6月12日、摂津と山城との境にある山崎で秀吉軍と光秀軍は相対します。翌日に戦い(山崎の戦い)が始まり、当初は互角でしたが、秀吉の奇襲により戦況が大きく傾き、光秀軍は700人程度にまで減ってしまいます。光秀は退却しなければならなくなり、拠点の坂本城を目指して逃げましたが、竹藪の中、農民による落ち武者狩りにあい、命を落とします。わずか数日間だけ光秀の天下だったため、「三日天下」と呼ばれます。ここから、戦国の世は終わりに向かい、秀吉の天下統一が始まりました。その後は秀吉が天下統一を果たし、死後は徳川家康が天下を治めることとなります。

なぜ明智光秀は裏切ったのか?

なぜ明智光秀は裏切ったのか?

本能寺の変を起こし、信長を殺害した明智光秀。ではなぜ信長に対して、謀反を行うことになったのか。現在でも謎に包まれている部分です。断定はできませんが、いろいろと推測はできます。ですので、いくつかの説を紹介していきます。

野望説

信長や光秀が生きた時代は戦国時代。身分が低かろうと力を手にすれば下剋上が可能でした。そんな時代ならば信長を倒して自分が天下統一をしてやろうと思うのも自然な話です。

陰謀説

信長を倒し、自分が天下統一をしてやろうと考える者は無数にいました。足利義昭、豊臣秀吉、徳川家康などが光秀と手を組んだ、もしくは光秀に信長殺しの罪をかぶせたのかもしれません。もし秀吉なら自作自演で本能寺の変を手引きし、光秀を殺したというとんでもない極悪人になってしまいます。

恨み説

信長は、四国の戦国大名である長曾我部元親と和平を結ぼうと考え、その交渉を光秀に任せていました。それにもかかわらず、信長は長曽我部氏を敵視し、大軍を送り四国征伐をさせました。今まで和平に向けて尽力してきた光秀の努力が無に帰しました。

波多野氏と母

信長に命じられ、光秀は八上城の波多野氏を攻めていました。すでに4年かかっていましたが、攻め落としきれませんでした。そこで、自分の母を人質として差し出し、波多野氏に対して、降伏してくれれば命と領土を取らないということを約束しました。この約束により、波多野氏は信長のもとに送られました。しかし、信長はその波多野氏を殺してしまいます。そのことによって、人質にしていた母が殺されてしまいました。その際、光秀は「母殺し」と汚名をかぶせられ、相当な恨みを抱いたと言われています。

饗応(饗応)事件

武田軍との戦い後、光秀は信長から徳川家康たちの饗応役を任されました。饗応役とは簡単に言うと食べ物を準備する係です。その際、食べ物が腐っていると信長に指摘され、光秀は饗応役をやめさせられました。武士としての面子がつぶれた瞬間でしょう。その後すぐに中国出兵を命じられました。時期もちょうど本能寺の変の直前なので、ここで光秀の怒りが爆発してしまったのかもしれません。

このような恨みが限界まで溜まり、本能寺の変を起こしたのかもしれません。信長が光秀に対してもう少し優しく接していたら結果は変わっていた可能性はあります。しかし、今ではパワハラと取られてしまうような行動や言動でも、400年前では当然のことかもしれませんし、難しい話だと言えるでしょう。

上記のような理由で光秀は本能寺で信長を殺すことにしたのかもしれません。

しかし、2017年、岐阜県の博物館にある書状から手紙が見つかりました。その内容は、光秀が本能寺の変後に「反信長」の土橋重治にあてたものです。足利義昭に受けた旨を書いたものであると考えることもできるそうです。このような発見で、光秀が本能寺の変を起こした真相が明らかになるのかもしれません。いろいろな説があり、どれもあり得ない話ではない本能寺の変。あなたもこうだったのではないか?と自分なりの説を考えてみるのも楽しいと思います。

おまけ 織田信長にまつわる豆知識集

織田信長にまつわる豆知識集

織田信長について、全く知らないという人は今やほとんどいません。それほど有名で魅力的な人物ではありますが、あまり知られていない豆知識や面白い説もたくさん存在します。ここでは、そのなかでも面白く、へっー!となるような話を紹介していきます。

弥助と呼ばれた黒人

1581年、ヴァリニャーニという宣教師が信長に謁見した際、奴隷としてひとりの黒人を連れてきました。黒人に対するとてつもない差別や偏見は、現代ですら大きな問題が残っています。それなのにも関わらず、400年前の段階で、信長は全くの偏見を持たず、その黒人を己の側近にしました。そして、彼に「弥助」という名前を与えました。「家忠日記」や「信長公記」の記述によると、弥助の身長は180センチ程で、凄まじい剛力だったらしいです。当時、日本人の平均身長が今よりかなり低かったことを考えると、彼のことは巨人のように見えたのではないでしょうか。その体格と力を買われ、甲州征伐にも従軍したようです。

そんな弥助は信長にかなり気に入られていたようで、領地を与えて城主にさせようと考えていたようです。本能寺の変で信長が亡くなってしまい、弥助が城主になることは無かったそうですが…。信長亡き後、弥助を発見した明智光秀は「その黒人は動物と変わらない。バテレン共に返しておけ。」と南蛮寺に強制送還しました。この弥助への対応の差で織田信長と明智光秀の天下人としての器の差が見て取れると思います。明智光秀が天下を統一していたら、現代の差別問題がもっと大きくなっていたかもしれません。

信長は日本人で初めて〇〇をした!

上記の弥助のエピソードも、信長が日本人の武将として初めて黒人を部下とした話です。新しいことに興味津々で、偏見や差別をせずに物事を判断できる信長は、日本人として初めてしたことが色々とあります。

キリスト教の布教をする団体イエズス会の宣教師が、信長に地球儀を献上しました。当時の日本人は、地球は平面だと考えていました。江戸時代の朱子学者である林羅山は、「万物を観るに、皆上下あり。上下なしと言うが如きは、これ理を知らざるなり」と言い放ち、地球球体説を否定しました。それにもかかわらず、信長は地球が球体であるとすぐに理解したらしいです。ここからでも信長の器の広さ、頭の柔らかさがわかるでしょう。

1569年、ルイス・フロイスという宣教師によって、バナナが持ち込まれました。残念ながら信長が食したという正式な記録はないそうです。また、同じくルイス・フロイスが金平糖を献上しました。このような南蛮菓子は大量に持ち込まれたようで、大名に取り入り、布教活動を推進させるために用いられたようです。

さらに、日本人で初めてワインを飲んだのは織田信長であるとも言われています。こちらも文献がなく証拠はありませんが、ワインはキリスト教においてとても重要なものであり、宣教師が日本に持ち込まないということなないはず。しかも、ここまで見てきたように、新しい物好きの信長ならワインを飲まないという選択肢はないはずです。ちなみに、豊臣秀吉がワインを飲んだ記録は残っているようです。信長が日本人として初めてこれらの食品を食べたという証拠はありません。理屈で考えれば、南蛮貿易が行われた九州で先に食べた可能性のほうが高いです。でも、確証がないのなら歴史は面白く考えるべきです。ということで、信長が日本人で初めてバナナ、金平糖を食べ、ワインを飲んだということにしておきましょう!

まとめ

織田信長が明智光秀に謀反され、殺害されてしまった本能寺の変を紹介しました。本能寺の変前後、おまけの豆知識でも信長の優秀な頭脳、新しいものを偏見なしに見ることができる柔軟な思考が分かります。もし明智光秀に殺されていなかったら、ほぼ間違いなく天下統一がかなったでしょう。統一した世の中で、信長がどのような政治をするのか非常に気になるところです。

もし、この記事を読んで少しでも織田信長について気になった点があればすぐにでも学校の教科書や資料集、インターネットで調べてみましょう。気になる!という気持ちが表れた今こそ勉強をするチャンスです!ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました!

なお、お勉強の事でお困りごとがありましたら、是非私たち家庭教師にもご相談ください!また、家庭教師の仲間も募集中です。ご興味のある方は下記リンクより是非ご検討ください。

この記事を書いたのは

現役阪大生ライターK

家庭教師ファーストの登録家庭教師。大阪大学経済学部在学。文系指導はお任せください!

著作・制作

家庭教師ファースト/株式会社エムズグラント

『質の高いサービスを、良心的な価格で』をモットーに、全国で20年以上家庭教師を紹介しています。実際に担当する教師による体験指導受付中。教育に関する相談もお気軽に。

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