家庭教師ファースト教育コラム社会・歴史の雑学
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2024年7月3日より新紙幣が発行されます。皆さんがこれを読むころには、既にお手元にあるかもしれませんね。新一万円札に渋沢栄一の肖像が載ることになり、大きなニュースとなりました。2021年の大河ドラマの「青天を衝け」の主人公として描写された渋沢栄一は、「日本資本主義の父」とも称され今や大きな注目を上げています。
ではなぜこれほどすごい人物が、今までお札にならなかったのでしょうか。なぜ歴史の教科書などで大きく取り上げられなかったのでしょうか?そもそも今までお札に載ってきた人物はどのような人たちでしょうか?
このコラムではそのような疑問について解説します。
なお、お勉強の事でお困りごとがありましたら、是非私たち家庭教師にもご相談ください!また、家庭教師の仲間も募集中です。ご興味のある方は下記リンクより是非ご検討ください。
この記事の目次

昔、欲しいものがあるときには、自分のものと相手のものを取り換える物々交換をしていました。これはお互いの欲しいものを相手が持っていて、かつその価値が同じくらいだと考えられたときに成り立ちます。しかし、個人個人が価値を決めるのは難しかったため、米、 布、塩などが貨幣のような役割のものとして現れ、これらが物の価値を示す基準となりました。
その後中国の開元通宝にならい、富本銭という真ん中に穴があいた貨幣が作り出されました。そして奈良時代には和同開珎が作られました。
平安時代、鎌倉時代、室町時代には中国から輸入した同船を日本国内で流通させました。鉱山の利用が進んでなく、金銀などの採掘があまりなされていない日本にとって中国との貿易が大事だったことが分かりますね。
戦国時代になると金、銀の採掘が盛んになり、戦国大名たちによって金貨や銀貨が作られ始めました。江戸時代に入ると徳川家康が日本ではじめて貨幣制度を統一したのですが、その後長い間にわたって鎖国していた日本が開国した際に日本と海外の金と銀の交換比率の違いにより、金が大量に日本から流出するといった問題が発生しました。
この金銀交換比率に関して、当時は金と銀の交換比率が日本が1:5で外国が1:15と言われています。ではなぜ金と銀の交換比率が日本が1:5で外国が1:15だと、金が大量に流出するのでしょうか。金と銀の交換比率が日本が1:5で外国が1:15というのは、外国では金1gと銀を交換するためには銀15gが必要ですが、日本では同じ金1gを5gの銀と交換することができると言い換えることができます。つまり日本では外国で銀貨を金貨に交換するよりも、少ない銀の量で金貨が手に入ったのです。
海外から日本に銀をもっていくと他の国の3倍の金が手に入るわけですから、外国人は多量の銀貨を日本に持ち込んで日本の金貨と交換して多大な利益を得ようとしたのです。黄金の国ジパングと言われるのも納得ですね。このような仕組みで、日本の金が大量に海外に流出していきました。
また、江戸時代には藩札という藩の中でのみ使うことができるお札が存在しました。このことから明治時代には日本の乱れた貨幣制度の再建と共に紙幣の流通という流れができ始めます。
明治時代に入り太政官札や民部省札が作られましたが、これらはお札に印のみが入ったもので簡単に偽造されてしまいました。そこでより高度な技術を持ったドイツに印刷を頼み、明治通宝というお札を作りました。こちらは以前より少し複雑なものだったそうですが、それでも偽造されてしまいました。
また問題点はもう一つあり、明治通宝を作る際に艶出しのために「こんにゃく」を混ぜていたそうなのですが、このこんにゃくのせいでネズミが紙幣を食べてしまっていたそうなのです。その後これらの問題点を改善するために、まずはこんにゃくを使うことをやめ、偽造を防ぐために肖像画を載せることに決めました。こうして新しい明治通宝ができました。
ところが当時の紙幣は不兌換紙幣(ふだかんしへい)というものだったのです。皆さんも疑問に思ったことがあるかもしれません。なぜお金はただの紙切れなのに価値があるとされているのか、と。具体的に説明しますと、兌換紙幣(だかんしへい)は金と交換できる紙幣のことです。兌換紙幣を持っているということは金塊を持っていることを意味するのです。逆に不換紙幣は、金とは交換できない紙幣のことを言います。
明治通宝はもともと藩札だったため、特定のグループ内での信頼の元で成り立っていました。つまりその紙幣が金と交換できないからと言って、紙幣の価値を疑うことはなかったのです。しかしその紙幣が全国に出回るとなると話が変わります。その価値は政府の信頼にあるため、なかなか流通させるのも困難です。そこで国立銀行紙幣という兌換の紙幣を作りました。しかし人々は最初は紙幣を疑ってすぐに金貨に交換してしまいました。これではあまり紙幣の意味がないため、再度不兌換紙幣へと戻しました。
この後西南戦争が起こりました。戦争となれば武器や食料が必要となります。当時はすでに武器などを買うためにはお金が必要だったわけですから、これだけ大規模な戦争となれば大量の紙幣が必要となります。そこで紙幣をたくさん刷ったところ、お金の価値が下がってしまいインフレというものが生じました。インフレとは物価が上がっていく状況であり、一つのものを買うのにも大量のお金を持ち運ぶ必要が生じてしまったのです。
その後松方正義が日本銀行を設立して日本銀行券を発行しました。ここでやっと、日本の紙幣は日本銀行券のみに統一されました。当時の日本銀行券は兌換でした。ここで兌換紙幣の問題点として、銀行が持っている金の量をもとに紙幣が発行されるということがあります。
多くの人が紙幣を使うとなると紙幣が大量に必要になってきますが、日本銀行が持っている金の量は有限であるため、必要とされる量の紙幣を発行できなくなったのです。その後世界恐慌もあり紙幣は不兌換に代わりました。

はじめてお札に肖像画が載ったのが前章で述べた明治通宝であり、神功皇后という人物が選ばれました。神功皇后は古事記という日本最古の歴史書に登場する人物であり、ヤマトタケルの子孫つまり神の子孫と言われている人物がうけたご神託をもとに朝鮮を攻め、朝鮮半島を制圧して帰ってきたのです。
この時点ではお札ごとに人物を変える余裕もなかったようで、神功皇后は1円、5円、10円すべての紙幣に採用されました。その後、日本銀行券があらわれ、技術の進歩によりお札の種類ごとに人を変えられるようになりました。最初にる作られたのは5円札であり、太宰府天満宮に祭られている菅原道真がその肖像画となりました。
次に1円札として武内宿禰が載ったお札が発行されました。武内宿禰は神功皇后と共に挑戦を攻めた人物です。ところがこの人物には様々な説があり、その原因として書物に記されている記述から考えると、武内宿禰は300歳以上まで生きているということになってしまうことが挙げられます。このことから武内宿禰は実在するのではなく、話の中で作られた英雄なのではないかと考えられています。
また10円札に選ばれたのは和気清麻呂という人物です。この人物は奈良時代に活躍した人で、この時代には仏教が大変広まっており、道鏡が次の天皇になるというご神託が嘘だと公表して島流しをされたそうです。その後、和気清麻呂は島流しされていたところから桓武天皇により連れ戻してもらい、平安京造営の責任者となりました。
100円札としては藤原鎌足が選ばれました。大化の改新を行った人物です。大化の改新とは大化という時代に中大兄皇子と共に唐の律令制を見習って行った政治改革のことです。蘇我氏を打倒し、中央集権国家を作ることを目的としていたようです。
その後100円札は聖徳太子に代わりました。ここまでの選出者は、皆皇族または皇族を補佐した人なのです。このことから明治政府は、天皇中心の国家づくりを目指していたことが読み取れますね。このようにお札に載った人物について知っていくことで当時の政府や人々の考えがみえてくることは興味深いことです。
その後1945年、第二次世界大戦終戦の年にヤマトタケルが1000円札に、楠木正成が5銭に載りました。ところがGHQの反対によりこれらのお札はすぐになくなります。GHQとは日本を管理するための最高司令部として東京に設置されたのですが、GHQメンバーの大半がアメリカ人だったため、実際はアメリカ政府の思い通りに行動する機関であったといわれています。
GHQとしては明治政府が天皇中心の国家づくりを進めることは不都合だったので皇族または皇族を補佐した人がお札に載ることに反対したのだと言われています。
先ほど5銭に載ったと述べた楠木正成は南北朝時代に後醍醐側についた人物であり、お札からいなくなるまでは英雄として扱われていたのですが、お札からいなくなって以降は悪いように描かれていたと考えられていたそうです。
この後はGHQが理想的だと考える人物がお札に載りました。1946年から1963年まで1円、100円、50円、500円、1000円が順に発行され、それぞれ二宮尊徳、板垣退助、高橋是清、岩倉具視、伊藤博文が選ばれました。これらの人物はすべて政治家であり、政治を中心とした国家づくりが始まろうとしていたことが読み取れます。
その後1984年にまた新たに1000円、5000円、10000円札が発行され、それぞれ夏目漱石、新渡戸稲造、福沢諭吉が選出されました。皆さんも気が付きましたでしょうか。ここで大きく人物像に変化が現れたことが分かります。
夏目漱石は「吾輩が猫である」の著者、新渡戸稲造は「武士道」の著者、福沢諭吉は「学問のすゝめ」の著者であります。これらの変化から政治家よりも文化人を重要視していた時代だということが分かります。
その後2000年には紫式部が2000円札に選出されました。続いて2004年には樋口一葉が5000円札に2024年には津田梅子が同じく5000円札に選ばれたことからも現代の日本では男女平等を重視していることが分かってきます。
このようにお札を見ることによってその時代の価値観や、当時日本が国民に見せたい人物像がわかることはとてもおもしろいですね。今回の記事で述べたこと以外にもお札に選ばれた偉人から読み取ることのできるメッセージはたくさんあると思います。皆さんもぜひこれらの偉人たちの背景を調べてほかに隠れているメッセージはないのか考えてみてください。
2024年には津田梅子、渋沢栄一、北里柴三郎がお札になりますが、これから先どのような人物がお札に載るか、現代の文化、時代的背景などを考えて予想してみるのも楽しいでしょうね。

さて皆さん、お札に載った回数が最も多い人物は誰でしょうか。
答えは聖徳太子です。聖徳太子は計7回お札に載っています。まずは1930年に初めて100円札に採用されて以来、戦前2回、戦後5回発行されているようです。
また、5000円札と10000円札は、戦後に発行された日本銀行券の中では、発行期間が最も長かったのです。この登場回数と発行期間の長さにより、国民にとって聖徳太子は日本銀行券にあって当たり前と言った印象が上ついてしまったようです。さらに、聖徳太子像は、いずれも発行当時の最高額券に採用されたことから、高額のお札といったイメージもあったようです。ここで、聖徳太子像がこれだけ多くの日本銀行券に採用された理由は何だろうと気になりますね。それには3つ理由があると考えられています。
まず1つ目は国内においては憲法17条を制定したことや仏教を保護したことなど、そして国外に関しては中国との国交回復や遣隋使を派遣することによって大陸文化を日本に取り入れたことなど、多くの業績を残したためとされている。
また2つ目の理由はお札に載せるの当たっての都合になってしまいますが、歴史上の事実を実証したり、肖像を描くために必要な本人の顔が分かっていることのようです。
3つ目の理由としては1946年にGHQが審査を始めた際に、日本政府が決定した肖像に相応しい人物にあたる菅原道真、武内宿禰、和気清麻呂ついて、GHQは軍国主義的な色彩が強いため、肖像として使用することを認めなかったのですが、聖徳太子は海外の考えを大いに取り入れたことがあったため、GHQ審査も乗り越えることができたのだと考えられています。
このように国民から敬愛され知名度も高いこと、GHQの審査を乗り越えたことがこれほどの回数、長期にわたってお札に載ってきた大きな理由だと考えられます。
歴史上の人物で、肖像として一番長く「使われた」のお札はどれなのでしょうか。それは、1899年に発行された武内宿禰の1円札です。このお札は、1985年に一度発行が停止されたそうなのですが、法律上は現在も使える銀行券なのだそうです。皆さんは見たことがありますか?

お札が偽造されないようにするために、現在の紙幣で用いられている技術にはどのようなものがあるのでしょうか。ここで今用いられている技術を以下に記します。
①すき入れバーパターン
これは光に透かすと、3本の縦棒が見えるといった工夫であり、パソコンやカラーコピー機等で再現しにくいものを使っているようです。
②パールインキ
お札を傾けると、左右の余白部にピンク色を帯びた模様が浮び上がるといった技術です。
③識別マーク
ざらつきのあるマークのことで、目の不自由な方が指で触って識別できるようになっています。
④マイクロ文字
「NIPPON GINKO」と書かれた小さな文字が印刷されています。偽造されないように小さい文字を取り入れているためマイクロと呼ばれています。新たに細かい曲線などで描かれた模様にも大小取り混ぜた文字がデザインされているそうです。
⑤潜像せんぞう模様
お札を傾けると、表面左下にお札の金額と裏面右上にNIPPONの文字が浮び上がる技術となっています。
⑥ホログラム
角度を変えると、画像の色や模様が変化して見えます。
⑦特殊発光インキ
表の印章に紫外線をあてるとオレンジ色に光り、地紋の一部が黄緑色に発光します。
⑧深凹版ふかおうはん印刷
従来の印刷よりもインクが盛り上がった状態で印刷されています。
普段何気なく使用している紙幣ですが、こんなにたくさんの技術が使われているんですね。

ここで①で「すきいれ」という技術が出てきましたが、お札にすかし技術は欠かせないといった印象があります。このすかし技術は、いつから使われているのでしょうか。
現在使われている日本銀行券には、光のある場所に向かってお札を掲げると、お札の反対側がみえるといったような「すかし」が使われています。すかし自体には2種類あり、紙の厚さを部分的に薄くする「白すかし」と、逆に部分的に厚くする「黒すかし」があります。実際に日本銀行券には、この2つのすかしを組み合わせた「白黒すかし」が使われているようです。
すかしの技術は、中国では10世紀から、ヨーロッパでは12世紀から、日本でも15世紀から存在していたとされています。ですが、すかし技術が実際にお札に使用されるようになったのは17世紀からと言われています。例として、スウェーデンのストックホルム銀行が1666年に発行した銀行券に、「BANCO」の文字がすき入れされています。
ここで日本が「すかし」をお札に導入したのがいつ頃であるのか気になりますね。
日本では江戸時代中期頃に発行された藩札の一部や、為替会社が発行した紙幣には、簡単な文字や模様がすき入れされていたようです。また、1882年に発行された神功皇后が肖像画として載った改造紙幣五円券に、トンボと桜花が白すかしですき入れられています。
また豆知識ですが、白すかしは便箋などにも使われていますが、黒すかしはすき入れ紙製造取締法によってその製造が規制されているのです。なので政府や特別に許可を受けた人以外は作る事が出来ないようになっています。

1927年の金融恐慌時に発行された「乙二百円券」というお札があります。こちらは使われている色の数が最も少ないお札だったそうで、表面の印刷が2色、裏面は印刷なしの無地という状態だったのです。いまでは簡単に偽造されてしまいますし、想像もできませんが、極めて短期間に製造する必要があったためにこのような簡易なお札になってしまったようです。

渋沢栄一は1840年の江戸末期に、深谷ネギなどで有名な埼玉県深谷市で生まれました。
渋沢家は藍染の商売をやっていて、藍染のもととなる藍の葉を買うところから藍を育て、布を染めるところまで行うのが仕事でした。
そんな渋沢家に生まれた栄一は13歳の時に藍の買い付けに1人で行きました。父が藍を買いつけるのを良くみていた栄一は良い藍と質の良くない藍の違いが良くわかっており目利きがとてもよかったそうです。また論語を愛読していたこともあり、商才があって賢かったのです。ところが栄一には悩みがありました。それはいくら商才があってもいくら勉強しても農家の子ということで身分の高いものから軽蔑されていたことです。幼いながらも賢い栄一は身分制度を作った江戸幕府に対して反感を抱くようになりました。
その後21歳の時に江戸に出た栄一は当時主流となっていた、尊王攘夷、つまり外国を排除して天皇を中心に一丸となろうといった倒幕派の考え方になっていきました。ここで倒幕の考えが強い栄一のいとこである尾高淳忠の存在もあり、外国人と貿易を行っている横浜を焼き長州藩と共に倒幕する計画まで立てていたのです。この計画は結局なくなりましたが、この後栄一が幕府側に勤めるのは驚きです。もしここで計画に反対してくれる人物の存在がなかったら、栄一は幕府側に勤めることもなく、今後残すであろう数々の業績を挙げることもなかったでしょう。
その後栄一が幕府側に勤める機会はすぐにやってきました。横浜を焼こうと計画を立てていたときから3年たったころ、そのころには長州藩の勢力が弱くなっており、倒幕などといったことはとても難しい状況でした。その中で栄一は東京の知り合いに紹介されたことをきっかけに後に徳川慶喜となる一橋慶喜の元で働くことになりました。その後、栄一が予想もしていない出来事が起きました。栄一が仕えていた一橋慶喜が将軍となったのです。これはつまり倒幕を望んでいた栄一が幕臣となってしまったのです。
栄一が27歳の時またもや転機が訪れました。このころパリ万博が開かれ、日本が初めて参加することとなりました。栄一はパリ万博に行き、現地で語学を教わりました。またヨーロッパ各国を見て回ることができたそうなのです。このときヨーロッパで見たものは日本にはまだ全く存在しないものばかりで、衝撃を受けた栄一は日本を改善しようと動き出したそうです。栄一がパリ万博から帰るとすでに大政奉還がされていました。栄一はこのことに衝撃を受けたそうですがこのことをきっかけに自分の好きなことを始められたのかもしれません。
この後栄一はまず株式会社というものを日本にはじめて導入します。株式会社という言葉は今ではよく耳にする言葉でありますが、渋沢栄一が日本にもたらしたものだったのです。株式会社とは一人で会社を作って一人で利益を独占するという考えを覆すものでした。みんなからお金を出してもらい、利益が生じたときにはみんなで分けるといったような考えです。このような資本主義はもちろん西洋文化の影響が大きいと思いますが、栄一が幼少期に仲間が大変な思いをして働いている姿を見てきたことも影響を与えていたのではないでしょうか。だからこそ一人で利益を独占する考えから離れることができたのではないでしょうか。
その後の出来事ですが、国家に手助けが必要と考えた大隈重信は栄一をその助っ人として呼び、大蔵省入らせたようです。ここで2人は郵便制度や廃藩置県、富岡製糸場を含む様々な制度などを開設したのです。
様々なことを大隈重信と共に成し遂げた栄一ですが、大蔵省に入った4年後に大蔵省をやめてその後は国家に関わるのをやめて民間の方に専念することに決めたのです。それからというものの76歳で引退するまでに500以上の企業の設立に関わりました。その中にはみずほ銀行、東京ガスなどから一橋大学、聖路加病院などの教育機関、病院に至るまで様々な施設があります。このような功績から、「日本資本主義の父」とも呼ばれているのです。

渋沢栄一は死後も2度にわたりノーベル平和賞の候補者として挙げられています。それではなぜこれほどの功績を残した渋沢栄一はこれまでお札に載らなかったのでしょうか。
実はかつてお札の肖像画を決める際に、何度か渋沢栄一は候補として挙がっていたのです。しかし、問題はその顔にありました。渋沢栄一はひげを生やしていなかったのです。偽造を防止することが大事な紙幣にとって、ひげがないことは大きな欠点となったのです。このように過去何度か肖像画を載せることを断念せざるを得なかったわけですが、最近になり、技術の進歩によってひげがなくてもお札に載せることができるようになったのだ、と言われています。
いかがだったでしょうか。小学校、中学校、高校と日本の歴史については学ぶのに、貨幣について学ぶことはほとんどないですよね。なので、貨幣の歴史について興味を持ったことがある人は少ないかもしれません。しかし今回の記事を読んでいただいて貨幣は時代の背景を表すものだということが伝わったと思います。これから先も発行される貨幣を見ることで今の時代に偉人とされるつまり日本の理想像が見えてくるのではないでしょうか。
参考文献:日本銀行HP
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現役千葉大生ライターH
家庭教師ファーストの登録家庭教師。千葉大学薬学部在籍。中学受験~大学受験まで幅広く指導可能です。